3706 契(下)①
3706 『契(下)①』
「この箱の中身は、『黒の宝玉』の欠片。
これを使えば、君は契約当時の君ではなくなる。
つまり、契約は自動的に失効する。」
既に宝玉と融合した体の変化を解く事は出来ない。
だが、失われた欠片を補えば変化が完成し、
変化に許された力を全て使う事が出来る。確かに、契約も失効する。
しかし。
「何故だ?何故最初からその話をしなかった?
何故わざわざその命を危険に曝した?」
「...確かめたかった。」 「何を、だ?」
「自分に、当主たる器が有るかどうかを。
もし君に殺されるなら、僕には器がないという事だから。」
「変化が完成すれば、お前は絶対に我を殺せない。それなのに。」
「だからさっき言っただろう。
殺されるのは僕に器がないからで、それは僕自身の責任だ。」
その御方は白木の箱に触れて一気に封を解いた。躊躇無く、その蓋を取る。
「さあ、取り給え。これは、君の物だ。」
「それで、確かめた結果は?」
「...僕に、当主の器があるのかな。あんまり、気は進まないけどね。」
「気が進まないのでは困る。お前が当主にならなければ、契約は発効しない。」
「え、契約って。それはさっき失効したから君は。」
「新しい契約だ。お前は美人が好きだと、そして我を美人だと言ったな?」
「確かに、そう言ったけど。」
「それならば、よもや我の願いを断る事はあるまい。」
足下に膝を折り、その御方の左手に口づけた。
「尊き御方。我が名は◎✕◇。
貴方様に従い、貴方様を守ると誓う。どうか我を僕に。」
「ええと、その...気持ちは嬉しいんだけど。契約はちょっと。」
「何故?」
「だって、勝手に君の契約を解除して、おまけに君を僕の式にしたと知れたら、
あの人は怒り狂うに決まってる。戦いを終わらせるのがもっと難しくなるよ。
あっさり僕を殺して、少しは溜飲を下げるつもりだったろうから。」
「貴方様の僕になれないなら、我の力は無用の長物。生きる意味も無い。
ならば、せめて戦いを早く終わらせるよう、あの男を我が」
「待った。契約していなければ、僕は血縁相克の大罪を回避できる。
でも、あの人を殺したら、君は一族全体の仇として報復の対象になってしまう。
契約した術者を殺すなんて、それは式として絶対に。」
「望むところ。それがどんな相手でも反撃はしない。
心穏やかに、座して死ねる。」
そう、この御方が、我に対し反撃の手段を全く用意していなかったように。
「参ったな。君の契約を解いて自由の身にする所までしか考えてなかった。
君は、愚かな人間達の無益な戦いに辟易している。
僕はてっきり、そう思っていたからね。」
「確かに人は愚かだ。だが同時に、例えようも無く愛しい。
我は人の愚かさで無く、愛しさに賭ける。我も、かつて、人であったから。」
重い沈黙の後、その御方は深呼吸をした。
「さっき話した問題点を解決して、君の希望を叶える方法は1つしかない。
君は僕の暗殺に失敗して消滅した。『上』を通して、そう発表する。
『分家の式が次期当主を暗殺しようとしたが失敗、式は消滅した。』と。
消滅すれば契約は解除され、あの人も君の動向を把握出来なくなる。
暗殺失敗には怒るだろうけれど、それは当然想定すべき結果の1つだ。
憎しみを募らせるよりも、次の手段を考える事に集中するだろうね。」
その御方は我を見詰め、それから気遣うように、視線を床に落とした。
「でも、君にとっては相当な不名誉だ。君程の式が任務に失敗するなんて。」
「貴方様の暗殺に失敗して消えた。それで良い。名誉など要らぬ。」
「本音を言えば、君が助けてくれるなら本当に心強い。
でも、契約するには条件がある。君は当分対外的な任務には関わらない。
出来る限り、君の存在を隠すためだ。どうかな?」
「仰せのままに。」
「では、君の新しい呼び名を。ええと。そうだ、
君は決して堕落した影なんかじゃない。だから、みかげ、御影はどうかな?」
「有り難う存じます。」
その御方の、照れたような笑顔が眩しい。
「それで...御影は、出来ればこれからずっとその服でいて欲しいな。
凄く、綺麗だから。」
「御意。」 全てこの御方の、仰せのままに。
今日も水平線に陽が沈む。
夜の帳が下りれば、彼方此方の影に拡散していた我の感覚は1つに繋がり、
この場所を覆う大きな傘となる。
この場所から少し離れて、あの御方のお社とお屋敷。
あの御方は本当に、敵対する術者の殺害を我に命じなかった。
あの御方の命を狙い、以前の我を差し向けた、あの狂った男の殺害さえも。
我に与えられた御役目は、『聖域』の境界の守護。
この場所を護り、この場所から『聖域』に侵入しようとするモノを排除する。
ふと、感覚の端に違和感。星影に紛れた、微かな、気配。
「秋津殿、戯れが過ぎると、今に間違いが起きよう。
そうなっても、責任は取れない。」
「見破られたか。さすがは御影よ。
これなら『聖域』は安泰。安心して隠居出来る。」
我の前任者、一族の黎明から今までを見守ってきた、最古の式。
「して、本日は何の御用かな?
この所、穢らわしい船で近づく不心得者が増えて忙しい。
正直、暇な御老体の相手をしている暇は無いのだが。」
「綺麗な顔をして、相変わらず取り付く島も無い。
せめてもう少し愛嬌があればの。」
「もし我に一片の美あれば、それはあの御方のため。他の誰のためでもない。」
「しかし其方がどれ程想いを掛けようと、あの御方は人の身。
その真心も、美しい漆黒の衣も、報われる事はあるまいに。」
「既に全てが、報われている。それに報われずとも、我の心は変わらぬ。」
「まあ良い。美味い酒が手に入った、夜光の杯もこの通り。付き合うてくれ。」
「肴を用意しよう、今の季節なら。」
「錆び鮎の塩焼きかな、茸の蒸し焼きもあれば猶良い。」
「贅沢な年寄りは嫌われる。」
「そう言わずに。ほれ、一献。見よ。望月が美しい。何度見ても、な。」
確かに、何度見ても美しい。これから何百年の後もずっと。
だが、何時かあの御方は...いや、今は考えない。
ただ、日々心を込めて、あの御方に与えられた任務を果たす。それだけ。
そう今は、それだけで良い。
眼が、覚めた。腕の中の、温かく柔らかな感触。
Sさんか姫、でなければ翠。そっと抱き寄せて...
!? いや、待て。そういえば昨夜、御影さんが。
一気に高まった鼓動に混じって聞こえてくる、これは、寝息?
その寝顔は何だか可愛くて、安らかで、見ていると胸の鼓動が静まっていく。
自分の事だけでいっぱいいっぱいだったから思いが至らなかったけれど、
ここへ来てから御影さんは何時、いや、そもそも寝ていたのか。
『特に寝る必要はない』と管さんから聞いた事がある。
『必要ならずっと起きていられる」と。
でも管さんと、今の御影さんは違う。
『生身の体に化生したのは初めてだ』と御影さんは言った。
それなら、こんな風に眠るのは一体何年振りなんだろう?
四股の効果はまだ続いているから、御影さんが寝ていても、問題無い。多分。
それにしても、こんなに無防備な寝顔。もう少しでも、このままで。
その時、微かに身じろぎをして御影さんが眼を開けた。
「朝か?」 「いいえ、まだ夜明けまではもう暫く。」
「とても、気持ちが良い。もう少し寝かせてくれ。」
「はい。でも、今日の行は。」
「今日の行は、問題なく」 言い終わらない内に、寝息が聞こえた。
「『寸鉄人を殺す』の例えはこの術が出所だという話がある。
初めは蝋燭の火を消す。かわらけを割れるまでになれば充分。
此所では力が増しているし、恐らくお前はこちらの方が得意だろう。
半日もかかるまい。」
言霊に物理的な影響力を与え、
必要なら弾や刃としても使えるようにする術。
御影さんの言葉通り、その日の行は滞りなく成就した。
此所を出て力が元に戻れば、多分蝋燭の火を消すのがせいぜい。
でもきっと、依頼人に見せる手品代わりにはなるだろう。
それより、適性を細かく制御できる技術を習得できた事に、重大な意義がある。
(もちろんこれも御影さんの受け売りなんだけれど)
翌日は5日め、いよいよ最終日。
『五日行』が成就するかどうかは、最終段階の行の成否による。
ただ、その行は夜が更けてから始まるのだそうで、
御影さんは朝食の後出かけたまま、夕方前まで帰ってこなかった。
夕食の後、風呂。
暫く部屋でボンヤリしていると、御影さんに声を掛けられた。
予め指示されていた白い道着に着替え、昨日まで修行していた板の間に移動する。
俺と御影さんは正対する位置で胡座をかいていた。
蝋燭の明かりが、御影さんの端正な顔をゆらゆらと照らしている。
「簡単に説明すると、今からお前はこの庵を出て更に登り、山頂を目指す。
その途中で幾つかの試練が用意されている。
最後の試練は山頂近く、小さな祠の前。其処で夜明けを迎えられれば行は成就。
案内の者が現れる筈だから、その者に着いていけ。」
此所を出るって事は...。
「それだと、御影さんが張った結界を出る訳ですよね?」
「当然だ。様々な怪異が、お前の行く手を遮ろうとするだろう。
だが、決して振り向くな。そして、引き返すな。
何としても最後の試練を乗り越えろ。もしも、それが...」
「最悪の場合、僕を処理する。そこまでが、御影さんの仕事なんですね?」
あの夜、乾杯した時に俺なりの覚悟はした。Sさん、姫と交わした、水杯。
御影さんは立ち上がり、背後に廻って俺を抱き締めた。
「無事に戻れ、必ず。お前を、殺したくない。」
背中に感じる温もりが急速に薄れ、ぞっとするほど冷たく。
『行け、時間だ。』 太く、低い声が響くと同時に、背中の感触は消えた。
『契(下)①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。




