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『藍より出でて ~ Bubbles on indigo river~』  作者: 錆鼠
第4章 2011~2013
139/279

3701 契(上)①

3701 『ちぎり(上)①』


皆で午後のお茶を飲んだ後、庭の落ち葉を掃き集めた。

やや力を失った陽光に秋の気配を感じる。もうすぐ、紅葉と落葉の季節。

本来なら、こまめに庭の手入れをするのが理想。しかし。


翠、藍、丹。


小さな子が3人もいれば、毎日何かと忙しい。

どうしても庭の手入れは後回しになりがち。

もちろんSさんの式に手伝ってもらう事も出来るが、

出来ればそれは避けたかった。


それにしても今日は、子供達3人揃って機嫌が良い。

一種奇跡的な、穏やかな日の午後。しかし。


突然の違和感。胸騒ぎのような、嫌な予感のような。何だろう、これは?

庭の掃除をしながら、突然感じた理由のない焦燥。

掃除を切り上げて玄関へ急いだ。


「Rさん!」 玄関のドアを開けた姫は丹を抱いていた。

緊張した顔。まさか子供達に何か?

「Rさん、お母様から電話が有りました。成る可く早く電話して欲しいって。」

違和感と胸騒ぎの原因はこれか...

ケイタイのボタンを押す間がもどかしい。


「雪が、もう長くないみたい。犬の事で大袈裟にして、御免ね。

でも、お前にはあんなに懐いていたから、知らせるだけでもと思って。」


雪は俺の実家で飼っている雌の秋田犬、17歳。

今年の正月、家族揃って実家を訪れた時、老いて衰えた様子を心配したが。

その時から覚悟していた時期が、かなり近いらしい。


「大げさって、雪は俺を...知らせてくれて本当にありがとう。

今、仕事はそんなに忙しくないし、多分時間は作れる。

様子を見に行けるように皆と相談してから、また電話するよ。」

「ありがとう、お願いね。」



「雪ちゃん、もう長くないかもって、どんな様子なんですか?」

丹を抱いた姫は、とても心配そうだ。

「エサをほとんど食べないって言ってましたから...

保ってあと数日、ですかね。」


俺が子供の頃に貰われてきた雪は、まだほんの小さな子犬で、

とても寂しがり屋だった。

夜、勝手口の三和土で心細そうに鳴き続けるのが可哀相で、

勝手口に枕と毛布を持っていって、一緒に寝た事が何日もあった。

それから...色々な思い出が一気に蘇り、胸が詰まる。


「今急ぎの仕事はないし、一週間位なら何とでもなる。

家の事は私とLに任せて、行ってらっしゃい。大事な家族なんだから。」

「有り難う御座います。取り敢えず3日間の予定で行って来ます。

その後は様子を見て。」


「みどりもいっしょに行く。お父さん、つれていって。」

ソファの上で翠が上体を起こしていた。

さっきまで、藍の隣でぐっすり寝ていたのに。

「みどりも、ゆきちゃんに会いたい。」


翠は最初に雪と対面した後、すぐに仲良くなった。

撫でてやったり、狭い庭を一緒にゆっくりと散歩したり。

雪も翠に良く懐き、お屋敷に戻る時には翠の後を付いてきて、

俺達の車を見送っていた。

話を聞かれてしまった以上、翠をお屋敷に残して出掛けるのは難しい。


Sさんは微笑んでソファに歩み寄り、翠を抱き上げた。

「遊びに行くんじゃなくて、『お見舞い』よ。

御祖父様と御祖母様の御迷惑にならないように、

お父さんの言う事をちゃんと聞けるって、約束出来る?」

「うん、約束する。」


「お父さん、お願い。翠も一緒に連れて行って。ほら、翠も。」

「おねがい、します。」 丁寧なお辞儀に、少し心が和む。

父と母は翠を猫っ可愛がりだから問題は無いだろう。

それに翠がいれば、『その時』が来ても気が紛れるかも知れない。

父も母も、勿論俺も。


「分かった。今夜準備して明日の朝早く出発するから、早起きしてね。」

「うん、みどりも起きる。」 真剣な表情。思わず小さな肩を抱き締めた。


翌朝、少し早起きをして軽い朝食を食べた。翠もしっかり起きている。

実家までは車で約半日。7時に出発すれば、昼過ぎには着く。

Sさんが作ってくれたサンドイッチを持って、予定通り7時丁度に出発した。

途中で一度サンドイッチ休憩を挟み、実家に着いたのは1時半過ぎ。


車の音を聞きつけたんだろう、母が玄関から顔を出した。

翠が母に駆け寄る。母は微笑んで翠を抱き上げた。


「いらっしゃい、翠ちゃん。雪のお見舞いに来てくれて、有難うね。」

「おばあさま、ゆきちゃんは?だいじょうぶ?」

「今、寝てるけど。やっぱりエサを食べなくて...。」

「そうなの。心配、だね。」


トランクから荷物を降ろし、2人に続いて玄関のドアをくぐる。

車は後で移動するとして、取り敢えず雪の様子を確認したい。

廊下から台所の勝手口に急ぐ。


...三和土にぐったりと横たわる雪の体。目を閉じて、寝ているようだ。

想像以上に痩せた姿に、言葉が出ない。これではあと数日どころか、今日明日も。

寝ているのを起こすのは可哀相なので、そっと居間へ移動した。

「今の内に車を移動してくるよ。いつもの所でしょ?」

「そう。今朝電話しておいたから。」


馴染みの有料駐車場に車を移動して戻ってくると、雪は起きていた。

勝手口の床に頭をもたせかけ、翠が頭を撫でている。俺もそっと背中を撫でた。

雪は俺と翠の顔を交互に見つめていたが、

暫くすると安心したのか、また寝てしまった。


「お医者さんは『老衰だから治療は出来ない。』って。

頭はしっかりしてるみたいだし、朝と夕方は自分でトイレに行って、

水も、飲むんだけど。」

母はハンカチで目尻を押さえた。


「どこか痛がったり呼吸が苦しそうなら可哀相だし、こっちも辛い。

でも、そんなんじゃないから少し気が楽だね。

でも、あの様子だと今夜を乗り切れるかどうか。」


「夜はみどりがゆきちゃんのおうえんするから大丈夫。」

「応援?」

「そう、ここでいっしょにねるの。

ゆきちゃんも、みどりといっしょにいたいって。」


母は泣き笑いのような表情を浮かべた。

「お父さんもね、此処に寝て雪を応援したことがあるの。

今夜は翠ちゃんも、お願いね。」


夕方6時前。母の言葉通り、雪はふらふらと立ち上がった。

勝手口のドアに頭を擦りつけた後、俺達の顔を見つめる。

見慣れた、『外へ出たい』という意思表示。翠を連れ、庭から勝手口へ廻った。

外からドアを開けると、雪は少しよろめきながらドアをくぐり、

ゆっくりと歩き出した。


元気な時は外階段を上った屋上がトイレの場所だったが、

もう階段は上れないと聞いていた。

庭の外れでオシッコをしたあと、自分用の水桶へ向かう。

専用の水桶に新しい水を入れると、少し多めに水を飲んだ。

その後暫く庭の方を見つめていたが、勝手口へ歩き出そうとしてよろめいた。

力無く、座り込む。


俺が手を出すより早く、翠がしゃがんで雪の頭を撫でた。

「大丈夫だよ、ゆきちゃん。ここで少し休んで、それからかえろう。

みどりが、ずっと一緒にいる。大丈夫だよ。おうえんも、たのむから。ね。」

まるで頷くように俯いた後、雪は暫く目を閉じた。


「オシッコの量は普通、かな。でも、戻る途中でよろけて。

やっぱり体力が、かなり消耗してるみたい。」

「何か食べてくれたら良いのにね。一応エサは用意するけど。」


7時前に父が帰って来ると雪は目を開け、小さく尻尾を振った。

しかしエサは食べず、俺達が夕食を食べている間も目を閉じたまま、

三和土に横たわっていた。

三和土からじっと母を見つめる『ご飯頂戴』アピールは、

あんなに必死で可愛かったのに。


翠と母がお風呂に入っている間、

俺は台所のテーブルと椅子を移動して布団を敷いた。

雪はじっと横になったままでピクリとも動かない。何度も呼吸を確かめた。


翠が布団に入ったのは9時前。

『今夜はずっとおうえんしてるからね。』と声を掛けた後、

10分もしないうちに寝息が聞こえた。

母は洗い物を終えて明日の準備をしている。


俺は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。

ナイトゲームの実況が、居間から微かに聞こえて来る。


「何だ、巨●、負けてるじゃない。」

缶ビールを一本父の前に置き、もう一本のプルタブを開ける。

父は薄く笑った。「まあ見てろ、次の回に逆転する。△部が、打つからな。」

表情と声がいつもより控えめなのは、やはり雪が気に掛かっているからだろう。

父の斜め向かい、一人がけのソファに腰を下ろした。

缶ビールを半分程、一気に飲む。


「で、どうだ?何か、分かったか?」 「何かって、何?」

「雪の寿命とか、延命の方法とか。色々あるだろ。お前は陰陽師、なんだから。」

「人の寿命も分からないのに犬の寿命が分かる訳ないよ。

それに医者も老衰で手の打ちようが無いって言ってるんだから、

延命なんて無理。」


父は俺の眼をじっと見つめた。TVの明るいCMソングは、場違いなBGM。


「それは、Sさんでも、Lさんでも同じか?」

「死期が予測できるのは特別な場合だけ。

雪の正確な寿命は、多分2人にも予測出来ない。

それより今夜を乗り切れるかどうか、心配な位なんだけど。」

「そうだな。」 父は中継が再開された画面に視線を移した。


「もう17歳。仕方、ないか。」 ポツリと呟く。

寂しそうな、横顔。

雪の死、その実感がじわりと胸にのしかかってくる。


「あ、でも、今夜は多分大丈夫だよ。」 「何故分かる?」

「翠がそう言ってたからね。

あの子が鋭いのは特別だから、信じても良いと思う。」

半分は親父への、残り半分は俺自身への、気休め。

「そう願いたいな。今夜を乗り切ってくれたら、

明日と明後日は俺も一日家にいられるし。」


沈黙。静かな居間に、歯切れの良い実況だけが小さく響いている。


突然、鋭い打球音が響いた。興奮したアナウンサーが叫ぶ。

「ほら。言った通りだろ?」

いつもなら派手なガッツポーズが出る場面だが、父は微笑んだだけだった。

空き缶を持って台所へ戻ると、母が翠の枕元に座って、雪の頭を撫でていた。


「この頃、あんまり寝てないでしょ?今夜は翠と俺に任せてゆっくり寝てよ。」

いくら雪が俺に懐いていて、父には絶対服従だとしても、

一番長い時間を雪と共有したのは母だ。今の雪の姿を見て一番辛いのも母だろう。

「そうだね。そうさせて、もらおうかな。」

母は手を洗い、そっと翠の頬を撫でた。


「お休み。雪を、お願いね。」 「うん、お休みなさい。」

寝室に向かう母を見送った後、缶ビールをもう一本飲んだ。

やはり落ち着かないが、翠の言葉通り今夜を乗り切れば、『その時』は多分明日。

今は体を休めておいた方が良い。

翠の隣、布団に入ったのは10時半を過ぎていた。

半日運転した疲れとビールの酔いのせいか、俺はすぐに眠りに落ちた。


『契(上)①』了

『契』の投稿を開始します。 本日投稿予定は1回、任務完了。

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