3701 契(上)①
3701 『契(上)①』
皆で午後のお茶を飲んだ後、庭の落ち葉を掃き集めた。
やや力を失った陽光に秋の気配を感じる。もうすぐ、紅葉と落葉の季節。
本来なら、こまめに庭の手入れをするのが理想。しかし。
翠、藍、丹。
小さな子が3人もいれば、毎日何かと忙しい。
どうしても庭の手入れは後回しになりがち。
もちろんSさんの式に手伝ってもらう事も出来るが、
出来ればそれは避けたかった。
それにしても今日は、子供達3人揃って機嫌が良い。
一種奇跡的な、穏やかな日の午後。しかし。
突然の違和感。胸騒ぎのような、嫌な予感のような。何だろう、これは?
庭の掃除をしながら、突然感じた理由のない焦燥。
掃除を切り上げて玄関へ急いだ。
「Rさん!」 玄関のドアを開けた姫は丹を抱いていた。
緊張した顔。まさか子供達に何か?
「Rさん、お母様から電話が有りました。成る可く早く電話して欲しいって。」
違和感と胸騒ぎの原因はこれか...
ケイタイのボタンを押す間がもどかしい。
「雪が、もう長くないみたい。犬の事で大袈裟にして、御免ね。
でも、お前にはあんなに懐いていたから、知らせるだけでもと思って。」
雪は俺の実家で飼っている雌の秋田犬、17歳。
今年の正月、家族揃って実家を訪れた時、老いて衰えた様子を心配したが。
その時から覚悟していた時期が、かなり近いらしい。
「大げさって、雪は俺を...知らせてくれて本当にありがとう。
今、仕事はそんなに忙しくないし、多分時間は作れる。
様子を見に行けるように皆と相談してから、また電話するよ。」
「ありがとう、お願いね。」
「雪ちゃん、もう長くないかもって、どんな様子なんですか?」
丹を抱いた姫は、とても心配そうだ。
「エサをほとんど食べないって言ってましたから...
保ってあと数日、ですかね。」
俺が子供の頃に貰われてきた雪は、まだほんの小さな子犬で、
とても寂しがり屋だった。
夜、勝手口の三和土で心細そうに鳴き続けるのが可哀相で、
勝手口に枕と毛布を持っていって、一緒に寝た事が何日もあった。
それから...色々な思い出が一気に蘇り、胸が詰まる。
「今急ぎの仕事はないし、一週間位なら何とでもなる。
家の事は私とLに任せて、行ってらっしゃい。大事な家族なんだから。」
「有り難う御座います。取り敢えず3日間の予定で行って来ます。
その後は様子を見て。」
「みどりもいっしょに行く。お父さん、つれていって。」
ソファの上で翠が上体を起こしていた。
さっきまで、藍の隣でぐっすり寝ていたのに。
「みどりも、ゆきちゃんに会いたい。」
翠は最初に雪と対面した後、すぐに仲良くなった。
撫でてやったり、狭い庭を一緒にゆっくりと散歩したり。
雪も翠に良く懐き、お屋敷に戻る時には翠の後を付いてきて、
俺達の車を見送っていた。
話を聞かれてしまった以上、翠をお屋敷に残して出掛けるのは難しい。
Sさんは微笑んでソファに歩み寄り、翠を抱き上げた。
「遊びに行くんじゃなくて、『お見舞い』よ。
御祖父様と御祖母様の御迷惑にならないように、
お父さんの言う事をちゃんと聞けるって、約束出来る?」
「うん、約束する。」
「お父さん、お願い。翠も一緒に連れて行って。ほら、翠も。」
「おねがい、します。」 丁寧なお辞儀に、少し心が和む。
父と母は翠を猫っ可愛がりだから問題は無いだろう。
それに翠がいれば、『その時』が来ても気が紛れるかも知れない。
父も母も、勿論俺も。
「分かった。今夜準備して明日の朝早く出発するから、早起きしてね。」
「うん、みどりも起きる。」 真剣な表情。思わず小さな肩を抱き締めた。
翌朝、少し早起きをして軽い朝食を食べた。翠もしっかり起きている。
実家までは車で約半日。7時に出発すれば、昼過ぎには着く。
Sさんが作ってくれたサンドイッチを持って、予定通り7時丁度に出発した。
途中で一度サンドイッチ休憩を挟み、実家に着いたのは1時半過ぎ。
車の音を聞きつけたんだろう、母が玄関から顔を出した。
翠が母に駆け寄る。母は微笑んで翠を抱き上げた。
「いらっしゃい、翠ちゃん。雪のお見舞いに来てくれて、有難うね。」
「おばあさま、ゆきちゃんは?だいじょうぶ?」
「今、寝てるけど。やっぱりエサを食べなくて...。」
「そうなの。心配、だね。」
トランクから荷物を降ろし、2人に続いて玄関のドアをくぐる。
車は後で移動するとして、取り敢えず雪の様子を確認したい。
廊下から台所の勝手口に急ぐ。
...三和土にぐったりと横たわる雪の体。目を閉じて、寝ているようだ。
想像以上に痩せた姿に、言葉が出ない。これではあと数日どころか、今日明日も。
寝ているのを起こすのは可哀相なので、そっと居間へ移動した。
「今の内に車を移動してくるよ。いつもの所でしょ?」
「そう。今朝電話しておいたから。」
馴染みの有料駐車場に車を移動して戻ってくると、雪は起きていた。
勝手口の床に頭をもたせかけ、翠が頭を撫でている。俺もそっと背中を撫でた。
雪は俺と翠の顔を交互に見つめていたが、
暫くすると安心したのか、また寝てしまった。
「お医者さんは『老衰だから治療は出来ない。』って。
頭はしっかりしてるみたいだし、朝と夕方は自分でトイレに行って、
水も、飲むんだけど。」
母はハンカチで目尻を押さえた。
「どこか痛がったり呼吸が苦しそうなら可哀相だし、こっちも辛い。
でも、そんなんじゃないから少し気が楽だね。
でも、あの様子だと今夜を乗り切れるかどうか。」
「夜はみどりがゆきちゃんのおうえんするから大丈夫。」
「応援?」
「そう、ここでいっしょにねるの。
ゆきちゃんも、みどりといっしょにいたいって。」
母は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「お父さんもね、此処に寝て雪を応援したことがあるの。
今夜は翠ちゃんも、お願いね。」
夕方6時前。母の言葉通り、雪はふらふらと立ち上がった。
勝手口のドアに頭を擦りつけた後、俺達の顔を見つめる。
見慣れた、『外へ出たい』という意思表示。翠を連れ、庭から勝手口へ廻った。
外からドアを開けると、雪は少しよろめきながらドアをくぐり、
ゆっくりと歩き出した。
元気な時は外階段を上った屋上がトイレの場所だったが、
もう階段は上れないと聞いていた。
庭の外れでオシッコをしたあと、自分用の水桶へ向かう。
専用の水桶に新しい水を入れると、少し多めに水を飲んだ。
その後暫く庭の方を見つめていたが、勝手口へ歩き出そうとしてよろめいた。
力無く、座り込む。
俺が手を出すより早く、翠がしゃがんで雪の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、ゆきちゃん。ここで少し休んで、それからかえろう。
みどりが、ずっと一緒にいる。大丈夫だよ。おうえんも、たのむから。ね。」
まるで頷くように俯いた後、雪は暫く目を閉じた。
「オシッコの量は普通、かな。でも、戻る途中でよろけて。
やっぱり体力が、かなり消耗してるみたい。」
「何か食べてくれたら良いのにね。一応エサは用意するけど。」
7時前に父が帰って来ると雪は目を開け、小さく尻尾を振った。
しかしエサは食べず、俺達が夕食を食べている間も目を閉じたまま、
三和土に横たわっていた。
三和土からじっと母を見つめる『ご飯頂戴』アピールは、
あんなに必死で可愛かったのに。
翠と母がお風呂に入っている間、
俺は台所のテーブルと椅子を移動して布団を敷いた。
雪はじっと横になったままでピクリとも動かない。何度も呼吸を確かめた。
翠が布団に入ったのは9時前。
『今夜はずっとおうえんしてるからね。』と声を掛けた後、
10分もしないうちに寝息が聞こえた。
母は洗い物を終えて明日の準備をしている。
俺は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。
ナイトゲームの実況が、居間から微かに聞こえて来る。
「何だ、巨●、負けてるじゃない。」
缶ビールを一本父の前に置き、もう一本のプルタブを開ける。
父は薄く笑った。「まあ見てろ、次の回に逆転する。△部が、打つからな。」
表情と声がいつもより控えめなのは、やはり雪が気に掛かっているからだろう。
父の斜め向かい、一人がけのソファに腰を下ろした。
缶ビールを半分程、一気に飲む。
「で、どうだ?何か、分かったか?」 「何かって、何?」
「雪の寿命とか、延命の方法とか。色々あるだろ。お前は陰陽師、なんだから。」
「人の寿命も分からないのに犬の寿命が分かる訳ないよ。
それに医者も老衰で手の打ちようが無いって言ってるんだから、
延命なんて無理。」
父は俺の眼をじっと見つめた。TVの明るいCMソングは、場違いなBGM。
「それは、Sさんでも、Lさんでも同じか?」
「死期が予測できるのは特別な場合だけ。
雪の正確な寿命は、多分2人にも予測出来ない。
それより今夜を乗り切れるかどうか、心配な位なんだけど。」
「そうだな。」 父は中継が再開された画面に視線を移した。
「もう17歳。仕方、ないか。」 ポツリと呟く。
寂しそうな、横顔。
雪の死、その実感がじわりと胸にのしかかってくる。
「あ、でも、今夜は多分大丈夫だよ。」 「何故分かる?」
「翠がそう言ってたからね。
あの子が鋭いのは特別だから、信じても良いと思う。」
半分は親父への、残り半分は俺自身への、気休め。
「そう願いたいな。今夜を乗り切ってくれたら、
明日と明後日は俺も一日家にいられるし。」
沈黙。静かな居間に、歯切れの良い実況だけが小さく響いている。
突然、鋭い打球音が響いた。興奮したアナウンサーが叫ぶ。
「ほら。言った通りだろ?」
いつもなら派手なガッツポーズが出る場面だが、父は微笑んだだけだった。
空き缶を持って台所へ戻ると、母が翠の枕元に座って、雪の頭を撫でていた。
「この頃、あんまり寝てないでしょ?今夜は翠と俺に任せてゆっくり寝てよ。」
いくら雪が俺に懐いていて、父には絶対服従だとしても、
一番長い時間を雪と共有したのは母だ。今の雪の姿を見て一番辛いのも母だろう。
「そうだね。そうさせて、もらおうかな。」
母は手を洗い、そっと翠の頬を撫でた。
「お休み。雪を、お願いね。」 「うん、お休みなさい。」
寝室に向かう母を見送った後、缶ビールをもう一本飲んだ。
やはり落ち着かないが、翠の言葉通り今夜を乗り切れば、『その時』は多分明日。
今は体を休めておいた方が良い。
翠の隣、布団に入ったのは10時半を過ぎていた。
半日運転した疲れとビールの酔いのせいか、俺はすぐに眠りに落ちた。
『契(上)①』了
『契』の投稿を開始します。 本日投稿予定は1回、任務完了。




