3403 新しい命Ⅲ(中)②
3403 『新しい命Ⅲ(中)②』
何時の間にか、俺の右側の廊下に女性が立っていた。
間違いない、あの日此処で声を掛けてきた女性。
ただ、黒っぽい服を着た体はすらりと細く、あの日とは違う。
亡くなったのは、出産の後だったのだろうか。
『お子さん達、どうかしたんですか?』
「ええ、娘が少しぐずったので、少し散歩です。3人で。」
翠の耳に、そっと口を寄せた。
「翠。ごあいさつ、できるかな?」 翠は顔を上げ、女性の方に向き直った。
「こんばんは。」 「今晩は。お姉ちゃんは今夜も赤ちゃんと一緒だね。」
女性は一歩踏み出して少し屈んだ。
「ホントに可愛い赤ちゃん。
ね、お姉ちゃん。ちょっとだけ、抱っこさせて頂戴。お願い。」
顔の前で手を合わせる、おどけた仕草。だが、その眼は全く笑っていない。
ふっ、と、翠の体から固さが消えた。
軽やかに体を捻って俺の膝を降り、床に立つ。
「良いよ。少しだけなら『藍』を抱っこしても。はい。」
立ち上がり、女性を真っ直ぐ見つめ、差しだした翠の腕には。
...藍? いや、翠の『呪』が加わったそれは、藍そのものだ。
「有り難う。ちょっとだけね。」
深く屈み、顔にかかる髪。女性は『藍』を抱き上げた。
「可愛い。ホントに可愛い。この子はこんなに可愛いのに、私の、赤ちゃんは。」
髪の毛に隠れ、目の色は伺えない。
しかし、微かに歪んだ口元を見れば十分だった。
「私の赤ちゃんは何処に行ったの?昨日までは確かに。」
ぎこちない姿勢で『藍』を抱いていた女性の右腕がゆらりと動いた。
「分かってる。私は、昨日死んだ。それは良い。でも。」
女性の右手はゆっくりと『藍』の頬から首に。
「やめて、そんなの駄目だよ。」
「お姉ちゃん、御免ね。でも一人は嫌なの、寂しいから。」
突然乾いた音が響き、『藍』の体が光に包まれた。
「あ。何?」
女性の両手が燃えていた。青い炎がゆっくりと拡がっていく。
胸の奥が、痛い。
『救える人もいるし、救えない人もいる。』
俺と翠を送り出す前、Sさんはそう言った。
『救えたとしても術者の手柄ではない、救えなくても術者の罪ではない。
結局旅の目的地を決めるのはその人自身。
自ら破滅を選んだ人の魂は誰にも救えない。』と。
女性の姿が大きく揺らぐ。
青い炎は既に女性の全身に拡がり、勢いを増していた。
炎が勢いを増すほど女性の姿は薄れ、存在感を失っていく。
ただ、熱気を全く感じない。ソファに引火する様子も無い。
Sさんの術が生み出した、浄化の炎。闇に侵食された魂を焼き尽くす、業火。
『逃げるだけでは駄目、そんなの当たり前でしょ。
誰も、教えてくれなかったの?』
翠が女性を見つめている。でも違う。これは、Sさんの声だ。
『自分の夢から逃げ、愛した人から逃げ、最後は自分の人生から逃げた。』
女性は顔を上げた。
『逃げてなんか...私は、ちゃんと結婚して、妊娠して。』
『それで、あなたは誰と結婚したの?誰の子を妊娠したの?
あなたが死んだと連絡しても、あなたの夫が全く反応しないのは何故?』
『それは...』 女性の姿は消え、床に人形が落ち、俺の足下に転がった。
人形を拾い上げる。髪の毛、人型を編み込んだ辺りが焦げていた。
Sさんが人形に仕込んだ2つの術。『浄火』と『逆針』。
発動した術は炎...結局、最後まで女性の心は光に背を向けていたのだろう。
もちろん自業自得、しかし、胸の痛みは消えない。
事情は分からないが、さっきの会話からすると不倫がらみかも知れない。
そうだとしたら、この女性だけの罪ではない筈。
「お父さん、どうして?」
戻ってる、翠の声だ。そっと抱き上げる。
「どうしてって、何のこと?」
「あの女の人、どうしておよめさんになれなかったの?
およめさんになれたら、赤ちゃんが出来たら、
きっとあんなひどいことしなかったのに。」
? お嫁さんになれなかったって...
翠はあの女性の心を、それともSさんの術か?
「ハッキリ分からないけど、
好きになった人にはもうお嫁さんがいたのかもしれないね。」
「だ・か・ら、どうして?
おかあさんもおねえちゃんもお父さんのおよめさんでしょ?
あの女の人だって、2人目のおよめさんになれたはずでしょ?」
そういう、ことか。成長する過程で、いつか話す時期が来ると思ってはいた。
「良く聞いてね。お嫁さんは一人。それが普通なんだよ。」
「でも、お父さんは。」
「三人で相談して、それが『幸せ』だって決めたから。
『幸せ』の形は自分で決めるもので、それは一人一人違っていてもいいと思う。
もちろん『お嫁さんは一人』っていう考えが間違ってるなんて思わない。
それに。」
「それに、なあに?」 じっと俺を見上げる、澄んだ瞳。
「自分の考えを他の人に押しつけるのは良くないよね。
『お嫁さんは一人』って決めてる人達に、別の女の人が『2人目でも良い』って、
無理矢理お嫁さんになるのはダメでしょ?それじゃ誰も幸せになれない。」
「1人目のお嫁さんに、だまっていてもだめ?」
浮気とか、不倫? ...結構、核心を突いてくるなぁ。
「う~ん、絶対に知られなければみんな幸せかな。
いや、やっぱり難しいと思う。」
「どうして?」
「『お嫁さんは一人』って考えが普通なんだから、
『2人目でも良い』って女の人は滅多にいない。それだと、どうなると思う?」
「1人目のお嫁さんに、お嫁さんをやめてって言うかもしれない。
自分がお嫁さんになって、男の人を自分のものにしたいから。」
「翠、どんな人だって、他の誰かを『自分のもの』には出来ないよ。
例えばお父さんがどんなに翠を好きでも、翠は『お父さんのもの』じゃない。
いつか大人になって、誰かを好きになって、自分の幸せを見つけるんだから。」
暫く黙って考えていた翠が顔を上げた。
「きっと、あの女の人は男の人を『自分のもの』だと思いたかったんだね。
だから大人なのにおままごとして...何だか、かわいそう。」
?? 『おままごと』 妊娠、したのだからおままごとでは...
突然、言いようのない不吉な感覚に捕らわれた。
もしかして、好きな男を別の男に投影したのだろうか?
その男と結婚して、その男の子供を?
いや、幾ら何でもそれは。それなら浮気や不倫の方がよっぽど。
「もうお仕事は済んだんでしょ?すぐに帰ってこないと心配するじゃない。」
Sさんが立っていた。微笑みと共に差し出された右手、無意識に人形を手渡した。
受け取った人形を、Sさんは白い袋に入れた。手帳の時と同じ、携帯用の保管庫。
「これも病室には持ち込み禁止。
取り敢えず今夜は手帳と一緒に車の中ね。お願い。」
俺の腕から翠を抱き取る。俺は交換で白い袋を受け取った。
「頑張ったね、すごく偉かったよ。」
翠は黙って頷き、Sさんの肩に顔を埋めた。
「やっぱり怖かった?」
「うん、最初は少し怖かった。でも、お父さんと一緒だったから。」
翠の髪を愛しそうに撫で、Sさんは小さく肩をすくめて見せた。
「ね、翠。その女の人、最初に見たのと同じ人だった?」
「うん、同じ人だった。」
「最初見た時と違う所があった?」
「...服が、ちがってた。今日はくろい服。」
「それだけ?お腹は、大きかった?」
「ううん、大きくなかった。あの時と同じ。」
??? 翠には、見えてなかったのか。
一目で臨月が近いと分かったし、そして実際に子供が生まれているのに。
「先に戻ってる。心配事の始末は付いたし、なるべくLに付いていてあげないと。
あなたも、それを車に置いたら早く戻ってね。」
白い袋を車に置いて部屋に戻ったのは10時少し前。
既に姫と藍は寝息を立てていた。
翠をあやし寝かしつけるSさんに声を掛けるのは躊躇われたし、質問はお蔵入り。
翌日。朝食の後、一旦お屋敷に戻り、手帳と人形を『保管庫』に入れる。
ただ、手帳は未だリビングのテーブルの上。
病院に戻る前に、調べようと決めていた。
Sさんは気乗りしない様子だったが、あの、▼沢という女性が
あれ程に歪んでしまった事情を知りたかった。
そして、彼女のお腹の子についても。
だから敢えて、手帳と人形を保管庫に入れる役目を引き受けた。
『新しい命Ⅲ(中)②』了
本日投稿予定は1回、任務完了。




