3203 礎(下)①
3203 『礎(下)①』
明るい月光に照らされた、瑞紀ちゃんとたか子さんの後ろ姿。
2人は急ぐでもなく、躊躇うでもなく、しっかりとした足取りで歩き続ける。
そのまま、山へ向かう道の脇道に入った。暫く歩いて立派な石組みの泉に着いた。
この地に集落が開かれた当時から、人々の命を繋いできた古い泉。
その泉の名は『ウブガー(産泉)』。
名前の通り、その水は古来、集落で生まれた赤子の産湯に使われてきたと聞いた。
勿論、生活用水、農業用水としても。
祭事の初日。男達がびしょ濡れだったのは、この泉で沐浴をしたからだろう。
泉まで十数m、たか子さんが立ち止まった。
泉に向かうのは瑞紀ちゃん一人。つまり、俺達が行けるのも其処まで。
たか子さんに追いついて指示を待つ。
「どうぞ、こちらで。」
たか子さんは外灯に照らされた小さな階段を指し示した。
階段を上るとコンクリートの小さな東屋。皆で木製のベンチに腰掛ける。
「水を汲みに来る人達の休憩所です。あの泉から此処に水を引いていて。
あ、始まります。山と水の神へ呼びかける神歌。」
泉を囲む石組みより一段高くなった場所。
小さな祠の前に瑞紀ちゃんが正座している。
古い言葉を紡ぐ、通りの良い、少しだけハスキーな声。
何だか懐かしい響き。
ふと、風に乗って微かな芳香が届いた。
何故? 線香を焚いている様子もないのに。
突然、翠が振り向いた。キラキラと眼を輝かせている。
「お父さん、へびさんだよ。すごく大きいの。」
蛇? じゃあこの香りは蛇の、でも何処に?
「翠、これからお母さんが良いと言うまで喋っちゃ駄目よ。
私達の声を聞かれると瑞紀ちゃんが危ないから。分かった?」
翠は両手で口を押さえ、大きく頷いた。
その仕草が堪らなく可愛い、しっかりと抱き締める。
祈祷を終えたのか、瑞紀ちゃんが立ち上がり、泉の中に降りていく。
石組みに設けられた3つの湧き出し口。それぞれ幅1m、高さ50cm程。
湧き出した水はいったん浅いプールのような場所に流れ込み、
そこから水路に流れ出ている。
瑞紀ちゃんはプールの真ん中辺りに跪いた。
!? 水が、光っている。
いや、強い光を放つ小さな緑色の粒子が、湧き出した水と共に流れている。
まるで大量の蛍が水の中で光っているようだ。
光の粒の数はどんどん増え、泉全体がボンヤリと光って見える。
湧き出す泉の水音を乱して、それは現れた。
真ん中の湧き出し口から伸びる首と大きな頭。
緑色の燐光に包まれた、巨大な蛇の頭部。
とにかくデカい。まるで超大型のニシキヘビ。文字通りの大蛇。
瑞紀ちゃんは跪いたまま胸の前で手を合わせている。
呟く言葉。此処からでは内容を聞き取れない。
やがて、大蛇はゆっくりとその全身を現した。
瑞紀ちゃんを囲むようにプールを一周。
更にもたげた鎌首の高さが約1m強、恐らく全長は10m以上。
50cm程の距離で、正面から瑞紀ちゃんを見下ろす大蛇。
チロチロと蠢く舌。近い。
さっきSさんが言った通り、声さえ聞かれなければ大丈夫なのか...あ。
瑞紀ちゃんの右隣、そして背後に跪く女性達の姿。
一体何処から、いつの間に?
...4・5・6、7人。白い着物と鉢巻き、勾玉と髪飾り。
最前列が瑞紀ちゃんを含む2人。その後ろに3人ずつの二列、計8人。
曲玉の首飾りと、鳥の羽根の鮮やかな髪飾り。瑞紀ちゃんと同じ、ノロの衣装。
細面、丸顔。横顔や体格はそれぞれ違うが、皆20代から30代に見える。
そして、女性達が胸の前で合わせた両手には、
何となく瑞紀ちゃんに似た雰囲気を感じる。
...そうか。
集落の成立以来、この地と人々を護ってきた、代々のノロクモイ達。
死してなお、この集落を想うその魂も加わって、
神と人々の縁を結ぶ仲人の大役を担う。
過ぎ去った12年間の恵みに感謝し、更に今後12年間の恵みを乞う祭事。
瑞紀ちゃんの右隣に跪いたノロクモイが唄い始めた。
神歌、女性にしては低く、渋い声。
どうやら瑞紀ちゃんの少しだけハスキーな声は、御先祖様からの遺伝らしい。
次々と声が加わっていく。最後に加わったのは瑞紀ちゃんの声。
重なり合い響き合う声が、力強く空気を震わせる。
何とも言えない荘厳な響き。全身に、鳥肌。
この神歌こそ、集落に豊かな恵みをもたらす約束の礎。
人々からは神々への信仰を、神々からは人々への恵みを。
それを仲介する、ノロクモイ達。
大蛇は目を閉じ、じっと神歌に聞き入っている。
神歌を三度繰り返して唄い、ノロクモイ達は揃って深く頭を下げた。
深夜の泉に、流れる水の音だけが響く。
満足そうに、大蛇が眼を開けた。 動き出す。
その体はゆっくりと湧き出し口の中へ。
大蛇の尾が湧き出し口に消えて数十秒。
詰めていた息を吐く。もう、大丈夫。
プールに視線を戻すと、ノロクモイ達の姿は消え、瑞紀ちゃんが一人だけ。
それを待っていたように、たか子さんが大きな紙袋を持って階段を降りた。
瑞紀ちゃんは両手で掬った泉の水を肩からかけている。
神々しい横顔。白い着物を彩る緑色の光の粒子。
美しい、まるで天女のようだ。
ずっと見詰めていたいが、紙袋の中身は替えの着物だろう。
気を遣って目を逸らした。
瑞紀ちゃんとたか子さんが戻ってきたのは2~3分後。
俺達には構わず、集落への道を進む。
「翠、もう喋っても良いわよ。お利口さんでした。」
Sさんは藍を抱いたまま翠の頭を撫でた。
「お母さん、あの大きなへびさんはかみさまだよね?」
「そう、でも蛇じゃなくて蛟。だから龍神の仲間。あ!」
Sさんの視線を辿る。
瑞紀ちゃんが立ち止まった。
たか子さんが振り向いた瞬間、瑞紀ちゃんは地面に頽れた。
「お父さん!みずきちゃんが。」
翠を姫に託して走る。瑞紀ちゃんの傍、たか子さんの隣りに膝を着いた。
「瑞紀を家まで、お願いします。」 「はい。」
良かった、呼吸に乱れはない。初仕事としては重過ぎる役目。
力を消耗して気を失ったのだろう。短期間に、よくぞここまで。
立派に役目を果たしたノロの後継者、その体を抱き上げた。
一刻も早く、ノロクモイの家へ。
翌朝、目が覚めると寝室には俺1人。慌てて着替え、台所へ向かう。
藍を抱いたSさんが新聞を読んでいた。たか子さんは鍋の火加減を見ている。
味噌汁の、良い香り。
「あら、昨夜は頑張ったんだから、もう少し寝てても良かったのに。
Lと翠は散歩。瑞紀ちゃんはまだ寝てるけど、先に朝御飯にする?」
藍を抱いたSさんの笑顔。
「あ、いえ。それより、あの泉に行ってみたいんですが。」
「昨夜で祭事は全部済んだから問題ない筈。たか子さん、どうですか?」
「構いませんよ。」 たか子さんは振り向いて、穏やかな微笑。
「写真も?」 「勿論です。」
二日酔いで頭痛と微かな吐き気。
しかし、デジカメを持って俺は玄関を飛び出した。
昨夜はすっかり感覚が麻痺していたが、蛟、あの大蛇は立派なUMA。
もし何か痕跡が残っていれば是非記録して置きたい、そう思った。 しかし。
泉に通じる道には沢山の軽トラックやオートバイ。
水缶やペットボトルを持った大勢の人々。
昨夜、俺達が祭事を見学した東屋も、賑やかに談笑する人たちで超満員。
「おやRさん、あなたは水を汲まないんですか?」
ノロクモイの家の近く、俺たちが良く買い物をする商店の店主。
俺と翠は去年の夏休みからの顔馴染みで、買い物の度に話し掛けてくれる。
「というか、今朝は何故こんなに沢山の人が水を汲みに来てるんですか?
前に瑞紀ちゃんに案内して貰った時には誰も居なかったのに。」
「祭事の翌朝、此処で汲んだ水には不思議な力があると言われてるんですよ。
この水でお茶やコーヒーを淹れて飲むと体が丈夫になるってね。
まあ、私はもっぱら島酒の水割りです。」 店主の手には2Lのペットボトル。
「じゃあ毎年、祭事の翌朝はこんなに沢山の人が?」
「はい。ただし、今年は特別。何しろ24年に一度の機会ですから。
是非Rさんも水を汲んで下さい。
瑞紀ちゃんがノロになるって決めたのはRさんのお陰だし、
昨夜は大事な役も立派にこなしてくれたと聞きました。
私達は皆、Rさん達にとても感謝してるんです。」
24年に一度?12年に一度じゃなく?
それに『大事な役』って? 昨夜、俺は見学してただけだぞ。
質問を口に出す前に、店主は一礼して歩き出した。
きっと一刻も早く水割りを飲みたいんだろう。
振り返る。水汲みの順番を待つ人々の列、皆の明るい笑顔。
あれだけの人が出入りしたのでは、この泉にはもう何の痕跡も残ってはいない。
まあ、仕方ない。
俺の個人的な興味より、集落の人々の信仰が優先するのは当然。
泉から帰る途中で姫と翠に会った。走り寄ってきた翠を抱き上げる。
「お父さん、どこに行ってたの?」
「昨夜の泉だよ。一緒に帰ろうか。」 「うん!」
3人でノロクモイの家に戻ると瑞紀ちゃんも起きていて、皆で朝御飯を食べた。
食後。たか子さんが淹れてくれたお茶を飲むと、
二日酔いがすうっと消えて楽になった。
「このお茶を飲んだら二日酔いが消えたんですけど、もしかして。」
「昨夜、あの泉で汲んだ水で淹れました。
祭事の直後は力が強過ぎて体に合わない人もいますから、
一晩おいた後で使う方が良いんです。」
たか子さんは廊下の奥へ歩いて行く。
きっとノロクモイには先にその水で淹れたお茶を。
「その水で作ったジュースを藍に飲ませたの。きっと御利益があるわね。」
Sさんは藍に頬ずりをした。
翠も姫も、もちろんSさんと瑞紀ちゃんも美味しそうにお茶を飲む。
「Sさん、さっき泉に行ったら□◆商店のおじさんがいて、
今年は24年に一度の機会って言ってたんですけど、
12年に一度じゃないんですか?」
「私じゃなくて、その祭事を執り行った本人に直接聞いたら良いじゃない。
ね、瑞紀ちゃん?」
はにかんだような笑顔。 そう言えば今朝の瑞紀ちゃんは口数が少ない。
「瑞紀ちゃん。何故24年に一度の機会なのか、教えてくれる?」
「はい。次の12年後は、泉じゃなくて浜での祭事です。
12年おきに泉と砂浜で交互に。
スクという小魚の群れが海岸に寄る時期ですから、
その祭事は旧暦の6月~7月頃ですね。」
(※スクはアイゴ類の幼魚、毎年決まった時期に数万匹単位の群れで現れる。)
成る程、それなら泉での祭事は24年周期。そして、もしかしたら。
「浜の祭事でも実際に現れるのかな?その、昨日の蛟みたいな神様が。」
「現れる筈です。でも、それを知ってるのは祖母とたか子おばさんだけですね。」
丁度そこに、茶器を載せたお盆を持って、たか子さんが戻ってきた。
『礎(下)①』了
本日投稿予定は1回、任務完了。




