2602 花詞②
2602 『花詞②』
その酒の醸し方、山の果実の味。話題は尽きない。
一体、どのくらい経ったろう。
お客が来て満足したのか、翠がウトウトと居眠りを始めた。
「失礼、娘を。」 翠をマットレスに寝かせて毛布をかける。
ふと、首筋に寒気。
振り向くと、小さな4人が揃って翠の寝顔を見詰めていた。
「寝てしまわれたか。本当に愛らしく、美しい姫君。」
「未だ幼く、術も修めておられぬのに。」
「既にその御魂も御力も。」 「人にしておくのが勿体ないほどの御方。」
まさか、将来翠を妖の嫁に、とか? 異類婚説話、そんな言葉が頭をよぎる。
「頃合いだ。そろそろ本題に。」 耳許で管さんの声。
確かに、もし翠に聞かせたくない話だとしても、今なら。
「ところで皆様方は、今宵どのような用件でこちらに?」
それらは一斉に俺を見た。まん丸な眼、生気が感じられない瞳。
見詰められると、何だか怖い。
「実は、我が主から仕官の件を言付かりまして。」 「仕官、ですか?」
「はい。元々我が主は京の都で高名な術師に式として仕えておりました。
しかし術師の死を境に、主は○×の山地に隠遁致しました。
もう400年程も前の事です。時折気が向けば、
修行のため山中に入った行者や術師と交わる事は有りましたが、
我らがどれ程勧めても、仕官する気にはなれないようで御座いました。」
「更に時は移り、○×の山地で修行する行者や術師も絶えて久しく。
今の世では主が優れた術師に仕える事もあるまいと、
我らは常々嘆いておりました。
しかし、主が先日姫君と父君をお見かけして、突然『是非もう一度仕官を』と。
主の気が変わらぬ内にと、慌てて支度を調えましたような訳で。」
俺の知る限り、式には2つの系統がある。
代に術者の力を封じた式は、主に短期間の使役に用いる。
何らかの方法で力を補充し続けない限り、活動できるのはせいぜい数日。
当然それ自身の意思はなく、使役する術者を越える力を扱う事もない。
しかし、管さんや御影は違う。
元々独立した妖だが、契約に基づいて術者に仕えている。
自身の意思を持っているから、その妖の同意を得ずに、
式となる契約が成立する事はまずない(外法を使う裏技は有るらしいが)。
契約の効力によって『良き理』から流れ込む力を使えるようになれば、
式の器によっては、使役する術者よりも遙かに強い力を扱う事もあり得る。
およそ400年もの間、自らの意思で○×県の山中に隠遁していたというなら、
間違いなく後者。そして、初めに『姫君に是非お目通りしたい』と。
「つまりその御方を娘の式に、というお話ですか?」
「左様、是非そのように。」
さすがに今は危険過ぎる。
しかし将来、強力な式を使役出来れば間違いなく翠に有利。
断るのは如何にも惜しい。しかし、素性が分からない妖を俺の独断では...
こんな時、Sさんがいてくれたら。
「その御方は、一体どのような御方でしょうか。
出来れば、直に御目にかかってお話を伺いたく存じます。」
「さて。我らは主に仕官しております故、このような化生も自在ですが、
主はそうも参りません。今この場で姫君への仕官を許して頂ければ、
主の化生も叶いましょうが、化生致しましてもこの仮屋に入れるものかどうか。」
どんな大きさ? 一体何の妖だよ。もし、そんな相手を無下に断ったら
「父親なら、腹を括れ。本意ではないが、ここはお前の判断に従うしかない。」
囁く声。 管さんの言う通りだ。深く息を吸い、下腹に力を込める。
『皆様方の御明察通り、娘は未だ術の基本も修めておりません。
しかも私たちの一族では、式の使役を許されるのは術者が13歳になってから。
それまでお待ち下さるなら、改めてお話を伺いましょう。それで、如何ですか?』
この場で断るのでなく、何とか話を先延ばしに。
それが出来れば、Sさんの意見を聞く事も出来る。
「あと8年と少し...人の身には長く、あまりに惜しい時間でありましょうに。
しかし、それが父君の御考えとあれば我らに異存は御座いません。」
そっと息を吐き、それとなく額の汗を拭う。どうやら収まりが付きそうだ。
「では、姫君への忠誠の証として、今宵と同じ贈り物を毎年お届け致します。
此度の約束、どうかくれぐれもお忘れ無きよう。」
『それでは足りぬ。』
鈴を振るような声。振り返ると、翠がマットレスの上で上体を起こしていた。
「姫君は、今何と?」
『毎年の贈り物だけでは証に足りぬ。そう、言ったのだ。』
場の空気が、一瞬で張り詰めた。 違う、これは翠の話し方じゃない。
「心を込めて贈り物を御用意致しましたし、
誠を尽くして仕官の御願いを致しました。
これ以上、姫君には一体何の御不満が?」
言葉は丁寧なままだが、篭もる力は先程までと段違い。
この後の言葉によっては。
慌てて翠を抱き上げ、膝の上に座らせた。耳許で囁く。
「駄目だよ。お客さんを怒らせちゃ。」
翠はじっと俺を見つめた。吸い込まれるような、黒い瞳。
『私に、任せろ。半端に道を付ければ、むしろこの娘に災いを招く。』
言い終えて、ゆっくりと小さな客たちに視線を移した。
ぴいんと伸びた背筋、威厳に満ちた横顔。やはり、翠ではない。
『仕官を望む気持ちが誠なら、お前の名を、名告れ。』
テントの中、彼方此方で、チリチリと金色の火花が散った。
鼻の奥で火薬の臭いがする。
管さんは黙って俺の肩から飛び降り、翠の直ぐ横に蹲った。
最高レベルの、臨戦態勢。
「御影」や「管狐」はあくまで通称。
真の名は、契約した術者だけに明かされる秘密。
それを俺と管さんの前で...もし最悪の事態を招いたら、翠を守る方法は。
『私に仕えるというなら、一族にも忠誠を誓うが道理。
そしてその日が来るまで、私の父母がお前の主。何を隠す必要が有る?
何度も言わせるな。お前の名を、名告れ。』
新しい絵本を手にした時のように、大きく目を見開いた、翠の笑顔。
何もそんな、挑発的な言い方をしなくても。冷や汗が流れる。
小さな客たちの姿がゆらりと薄れ、ランタンが頼りなく明滅した。
凝縮する気配...姿は見えないが、間違いなく目の前に、それは、いる。
『我が名を名告れとは。只今、此の場で姫君と契約を結べとの仰せか?』
テント全体を揺らす、太く低い声。
もう、俺の手には負えない。しかし、翠は。
『当然だ。契約もしていない妖の出入りを許す法など有るものか。
しかし、此の場で契約を結び忠誠を誓うなら、『良き理』への道が開く。
それで元の姿と力を取り戻すかどうか。全てはお前次第。分かっている筈。』
『我が想いを...有り難い。では、我も誠を尽くそう。我が名は。』
目が覚めると、明るい日差しがテントの布地を照らしていた。 朝、か?
入り口に丸くなった管さんの後ろ姿と、紙皿に残った赤っぽい干し肉は、
昨夜の出来事が夢でない事を示している。 一体、あれは?
「やはり○△姫の娘御。大した姫君よ。」
「でも、あれは翠の話し方じゃ。」
「どんな御加護も、御本人の希望がなければ力を持たぬ。
忘れたか?この仮屋で客を迎えるは、姫君御自身が望んだ事ぞ。」
...あの公園で過ごした日。翠には、俺に見えないモノが見えていたのか。
その一部を封じて尚、俺には感知出来ない存在を感知する感覚。
完全に信頼して任せた事だけれど、やはりSさんの判断は正しかった。
もし感覚の一部を封じていなかったら、一体何が起きたか予想も出来ない。
「とまれ、契約は成立した。新たに式を迎えたのは随分と久し振りだ。
まあ、姫君が実際にあれを使役するのは、もう少し先になるだろうが、な。」
紙皿に残っていた干し肉。その欠片を1つ食べて、Sさんは微笑んだ。
「少し塩辛いけど、美味しい。多分、熊の肉。鹿とか猪の肉とは違うと思う。」
「今、この辺りに熊はいませんよね。
じゃあ、本当に古い妖が○×県から翠ちゃんに?」
「契約していた術者との心の繋がりが余程深かったのね。
だから敢えて他の術者との間で契約の『引き継ぎ』をせず、
式としての力を失い、元の妖に戻って○×県の山中に身を潜めた。」
Sさんは、もう一欠片、干し肉を食べた。
「素のままでさえ易々と熊を屠るほどの力を持つ妖。
しかし新しい契約を結ばず、人々に害をなさず、只ひっそりと。
そのまま400年余、そこにR君と翠が訪れた。
だからこれも多生の縁。きっと、遠い約束の1つ。」
「易々と熊を屠るって、どうしてそんな事が分かるんですか?」
「苦しんで死んだ動物の肉は肉質が落ちるし、
獣臭がきつくなるって聞いた事がある。
この干し肉、旨味は濃いけど匂いは殆どない。だから。」
昨夜。翠は、そんな妖を相手にあの口調で...少し目眩がした。
『御加護』がなくても、強力な式を正しく使役する。
そんな術者に、翠は成長するだろうか?
不安が無いと言えば嘘になるが、正直先の事は分からない。
ただ、翠は式を使役する適性をSさんから受け継いでいる。それは確かだ。
「でも、何故翠なんでしょう?
適性は別にしても、未だ式を使役する力は無いのに。」
「一目惚れ、じゃないですか?翠ちゃんはとても可愛いから。」
「へ?一目惚れって。」
少なくとも400年は生きている妖が、たった3歳の女の子に?
藍を抱いたSさんは優しく微笑んだ。
「有り得るわね。大抵の場合、式が仕える術者を選ぶ基準は、
『損得勘定』でなく『好き嫌い』だもの。」
「いや、だからって。翠は3歳ですよ?」
「基本、術者と契約を結ぶような妖は人が好きだし、特に小さい子は好きよ。」
そう言えば管さんは翠がお気に入りで、それに敬語だ。
「もちろん人間の恋愛感情とは違う。
自分達よりもずっと短い命の有り様に、畏れや憧れを感じているのかもしれない。
この花を贈ったのも、きっとそういう意味。」
Sさんはテーブルに散った白い花びらを一枚摘まんだ。
ワインクーラーの花器に活けた、満開の枝。
「これは山茶花。園芸品種は幾らも有るけど原種は滅多に見かけない。
もとは漢字の通り山茶の花で『さんさか』、
それが訛って『さざんか』。受け売りだけどね。」
サザンカ。
そうか、この香りは。 一枚ずつ散る花弁、艶のある濃緑色の葉。
八重咲きの、色とりどりの花を見慣れていたから、
まさかサザンカだとは思わなかった。
姫が壁の本棚から新書版の本を取ってきた。白く細い指がページをめくる。
「サザンカの花言葉は『ひたむき』、白い花なら『理想の恋』。
出来過ぎ。偶然、ですよね?」
姫の言う通り、偶然だろう。それは、幾ら何でも。
「山茶花は日本原産らしいけど、山茶花の花言葉も日本発祥かしら。
それに花言葉自体の歴史はせいぜい200年。面白いけど、偶然でしょうね。
さて、400年位前、京の都、高名な術者に仕えていた。手がかりは十分。」
Sさんは藍を姫に託して立ち上がった。多分、行き先は図書室の記録庫。
翠はソファで昼寝をしている。
あれだけ夜更かしをしたのだから暫くは起きないだろう。
本人には一体何処まで昨夜の記憶があるのか。さらさらの髪を、そっと撫でる。
10分程でSさんが戻ってきた。A3の紙をテーブルに置く。
クッキリと太い筆文字。かなり古い文書のコピーだろう。
「これかも。もし、本当にこの記録の通りなら、大変だけど。」
『大変』とは言うが、Sさんの目は笑っている。急いで資料に目を通した。
古い筆文字、全て読める訳ではない。
しかし、ある文字が浮き上がるように目に入った。
『鵬』 おおとり?
それは古来、世界各地で目撃され、様々な名で呼ばれてきた。伝説の猛禽。
ロック鳥、シームルグ、ガルーダ、サンダーバード...
確か1800年代の終わりに、日本でもそれが射殺されたという記録がある。
それは鵬にしては小型なのかもしれないが、
記録によれば体長2m40cm、両翼の差し渡し5m80cm。
猛禽だったなら、アホウドリの大型個体の誤認などでは有り得ない。
「でも、この名前じゃありませんでした。確か」
Sさんは俺の唇を人差し指で押さえて首を振った。『黙って』の合図。
「駄目よ。それは翠だけの秘密。気を付けて。」
そうだ。管狐や御影と同様、『鵬』もあくまで通称。
術者が使役する際の、式としての姿と性質をおおまかに示すだけ。
『鵬』。 それは大きく強く、そして遙かな空を往く者。
それからは毎年、お屋敷の玄関に贈り物が届くようになった。
それは決まって10月の終わり。満開の、白い山茶花の枝。
山盛りの果実と熊の干し肉。椎と栗で醸した香り高い酒。
そして、その前後数日の夕暮れ時、お屋敷の遙か上空を舞う巨大な猛禽の影。
それらは、お屋敷に秋の深まりを告げる、新たな風物詩になった。
『花詞②』了/『花詞』完
休日朝活継続中、『花詞』完結です。本日投稿予定は1回、任務完了。
明日から次作を投稿出来るかどうかは未定です。




