中世ヨーロッパにおける「三つの指輪」への考察
中世ヨーロッパにおける「三つの指輪」の物語には、教訓説話と俗語物語という対比的な性格からなる二つの様式が存在する。双方共、三つの指輪が三つの宗教、即ちキリスト教、ユダヤ教、イスラム教を指す点では変わりが無いが、性格を異とする以上、それらの扱い方など話の目的には明確な差異が見て取れる。互いの宗教的、国際的な時代背景を踏まえながら、こうした差異の起生やそれによる相互の影響をまとめていく。
先ず13世紀に登場した教訓説話だが、これはキリスト教信仰を推進、普及するという明白な目的をもって生じたもので、故にそこでは反異端、反ユダヤ・イスラムという内外の「他者」へ対するキリスト教の正統性、優位性が高らかに謳われる。
その物語は、三人の子をもつ父親がその内の一人へ家宝の指輪を相続させるに当たり、そこへ瓜二つの偽物の指輪が加わる事で三人の子は争うが、本物の指輪が秘める奇跡的な治癒の力により正統な後継者が判明する、という形を取るものが多い。ここでの父親は神を、三人の子は正統と異端、或いは三つの宗教を指し、又本物のみが治癒の力もち父親=神がそれを心得ている事からは、キリスト教こそが神の意に即し、普く人々を救う事が出来る教えであるという顕著な主張が伺える。以下に二つの例を挙げ、こうした教訓説話の誕生を促した時代背景を考える。
1250年頃のドミニコ会士エティンヌ・ド・ブルボンによる『説教素材集』には、父親=神が嫡出の娘=正統へ本物の指輪を与え、非嫡出の娘たち=異端は正嫡に非ずと断じられるという話がある。
11世紀へ至るまで、キリスト教は教会や聖職者により主導されてきたが、12世紀には都市の発展やグレゴリウス改革の影響を受け、それへ抗うかの如くカタリ派やウ“ァルド派など俗人による宗教運動が展開された。これを受け、教会は彼等の自発的清貧や説教、共同生活といった使徒的生活、教会や聖職者を不要とする教会批判をもって異端と見なし、『説教素材集』が書かれた13世紀には彼等への弾圧や懐柔を施行、同時に托鉢修道会が誕生し宣教活動が活発化した。反異端を訴えるこの話の背景には、以上の様な時代の流れが考えられる。
又、13世紀末か14世紀初の『ローマ人物語集』(作者不詳)には、騎士=神が三人の息子、即ちユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒へ指輪を与えたが、真の指輪を授かったキリスト教徒のみが癒しの力を有したとある。
そして、神はユダヤ教徒へ土地、イスラム教徒へ宝物も与えたが、キリスト教徒が得た信仰=癒しはそれらより価値が有るとされている。この騎士による反ユダヤ、反イスラムを唱える話の背景としては、農業生産力の向上による人口増加と土地不足、東方貿易権拡大の動きや宗教的情熱の高揚などにより、1096年から1270年へ掛けて繰り返された十字軍が示唆される。計8回にも及ぶ十字軍の影響としてここで特に注目すべきは、「キリスト教徒共同体」の自覚と異教徒や異端への不寛容の増大であろう。以上の様に、教訓説話における「三つの指輪」には排他的なキリスト教正統化という単純且つ明快な意図が顕示されている。
これに対し、14世紀に現れた俗語物語では、舌を巻く様な返答や機知などのユーモラスな話が扱われ、宗教的ないし教訓的議論は二次的に過ぎず、世俗的な「読む」「聞く」楽しみや文学性が追求された。
教訓説話とは異なり、イスラム君主たるスルタンやユダヤ人の賢人が登場する一方で指輪の治癒の力は出てこず、スルタンが三つの宗教のどれが正統かを問い、賢人が「三つの指輪」の寓話で巧妙に答えるという話の外枠や重箱構造が存在する。そしてその寓話では指輪の真贋は宙吊りとされ、キリスト教を絶対視する姿勢は見られない。
具体的には、1348~53年頃に書かれ、具体的細部や心理描写、時空間の特定などをもって最も有名且つ高度な俗語物語とされるジョヴァン二・ボッカッチョの『デカメロン』へ収められた話において、次の諸点が画期的であると指摘出来よう。
主眼はスルタンであるサラディンの寛大さであり、彼は自分の問いへ見事な機知で答えたユダヤ人メルキセデクと友情を結ぶ。メルキセデクが語った「三つの指輪」の話では、父は三人の息子皆を等しく愛しており、父自身も三つの指輪の真偽の程は心得ていない。即ち、ここには異なる宗教を信奉する者でも分かり合える、父=神にもどの宗教が正統かは分からないという宗教的寛容が伺えるのだろう。
しかし、この様な方針を採る俗語物語が広がる中でも教訓説話は生き延びており、15世紀末のフランシスコ会説教師の日誌に、14世紀前半のドミニコ会士ジャン・ブロムヤードの『説教大全』から教訓説話「三つの指輪」が採り上げられている。
写本から印刷への移行期に在った当時における『デカメロン』の人気と広まりにより、民衆は「三つの指輪」の娯楽的な俗語物語のバージョンに馴染んでおり、教会にはそんな彼等をキリスト教バージョンへと引き戻す必要が有った。又、俗語物語では賢人とされるユダヤ人だが、この頃、キリスト教徒には出来ない高利貸し等の職へ就かせていた彼等との共存が立ち行かなく為り、反ユダヤ主義が広まっていた。15世紀末に為っての教訓説話の再生には、こうした反俗語物語、反ユダヤという仮説が成り立つだろう。
一方で、今度は宗教改革や対宗教改革を経て俗語物語の検閲が始まり、1559年にはローマ教会が『デカメロン』を禁書に指定している。粉ひきのドメニコ・スカンデッラはその『デカメロン』を読み内面化、異端審問の末に火刑へ処された。この事からは、教会の断固として俗語物語を認めようとしない教鞭な姿勢が読み取れる。
以上、中世ヨーロッパにおける「三つの指輪」の物語は、その教訓説話と俗語物語相互のバージョンによる併存と対立の歴史を抱えるものであり、決してキリスト教信仰の物語から宗教的寛容の物語へと、直線的、単線的な進路をきたものではないのである。