38.父の自覚 後編
ユーグリークが言うと、ルビーニアはぱっと子爵に顔を向ける。
ずっと真っ青な男は、当然の如く渋い顔をした。
「そのような、恐れ多い……ルビーニア、これ以上閣下のお手を煩わせるんじゃない」
「いいよ。フォルトラは大人しいし、私もいる」
「卿、大人でも滅多にない機会ですよ。触れられるだけでなく、乗せてもらえるなどと」
「きょ、卿が決める、ことですが……遠慮だけで断るのは、も、もったいない、かと」
ユーグリークだけの言葉では、子爵はどうも恐縮してしまう。
だが、魔法伯やスファルバーンが言い添えると、青い目が揺れ始める。
「ほ、本当に、危なくありませんか? ご無礼では……」
「天馬だから、確実に安全とまでは言えないな。だが、フォルトラは大人しいし、私の言うことをよく聞く。私も彼も乗せている人を落とすようなヘマはしないし、万が一そうなっても怪我が最小限で済むようにしよう」
「閣下は王城一の天馬乗りで、筆頭騎士で、凄腕の魔法使いでいらっしゃる。ここより安全な乗馬はありませんよ、卿」
魔法伯が耳打ちした言葉が決め手となったのだろうか。子爵は大きく息を吐き出した。
「……では、少しだけなら」
ユーグリークはルビーニアを鞍の上に上げてやると、その後ろにひらりと飛び乗った。横抱きにしたルビーニアに鞍の端をつかませ、その上でしっかり彼女を抱える。
天馬は主の合図を受けると、数歩軽やかにステップを踏んでから、翼を広げて飛び立った。夕日の中を旋回しながらゆっくり駆け上がっていき、高度を安定させると輪乗りを始める。
「見て! 見て! あたし、お空を飛んでいるわ!」
「ああ、ルビーニア……! やめなさい、そんな身を乗り出して! 手を離すんじゃない……!」
「大丈夫ですよ。ユーグリークさまは落としたりしません。フォルトラも」
なおも心配の絶えない子爵にエルマが声を掛けるが、聞こえているか微妙な所だ。
(でも、そんな風に真剣に心配してくれる人なら。今はまだ微妙な距離でも、きっといつか……)
「エルマさま! 風がすごいのよ! ねえ! びゅーびゅーするの! ねえねえ!」
呼ばれたエルマは顔を上げ、幼子に手を振ってやる。すっかり頬を赤くした彼女は、全身全霊で初めての空の旅を楽しんでいた。
(わたしが初めてフォルトラに乗った時は、とてもそんな余裕なんてなかったけど)
くすり、とエルマは忍び笑いを漏らす。
(そういえば、ある程度乗り慣れてからは、ずっとユーグリークさまばかり見ていて、周りの景色を楽しんだことはあまりなかったかも……?)
今度、お願いしてみようか。でもやっぱり、彼にばかり夢中になってしまうだろうか。
そんなことを考えていればまた幼子に呼びかけられ、手を振り返す。
短い時間だったが、とても暖かくて、幸せな一時だった。
あっという間の着陸に、ルビーニアは残念そうにしたが、ちゃんとユーグリークにお礼を言ってから下ろしてもらう。
ちょうどそのタイミングで、子爵家の迎えもやってきたようだ。別れの挨拶を交わし合う。
「本当に、今日はお世話になりました」
「いえいえ。こちらこそ、よくおいでくださいました。また是非、お越しになってください」
「宅にもまた、遊びに来てください……スファル君も、いつでも声を掛けてくれて構わないからね」
「は、はい、卿……」
大人達の会話が終わった時、エルマはふとルビーニアに気がついた。
幼子はもじもじとドレスを握っており、しばらく俯いている。やがてがばりと顔を上げた彼女の目には、何か決意の色が宿っていた。
「……パパ」
小さな手が、きゅっと服の裾を握りしめている。
子爵は大きく目を見開いた。零れんばかりに、青い目を。
「――あ。ああ、そうだ」
固まっていた彼から、最初は漏れるように言葉が出た。
「私はお前の……父さんだ」
自分の声を自分で聞き、あるいは言い聞かせ、子爵は噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「帰ろう、ルビーニア」
「……うん」
そうして最後にかけられた声は、驚くほどに柔らかかった。親子は手をつなぎ、夕焼けの中、馬車に向かって歩いて行く。
その後ろ姿を見て、ふとエルマに思い浮かぶことがあった。
――病死している妻。
――急に養女を引き取ることに決めた子爵。
――忘れなければならないルビーニアの母親。
――まるで子爵家にいたことがあるかのように、内情に詳しい……。
――同じ、青い目。
ペンダントを開ける時の子爵の説明で、どうしても腑に落ちなかったことがある。
けれど今まで得た情報に憶測を足せば、点と点は綺麗な線に繋がってしまう。
エルマはしかし、浮かびかけた妄想を振り払った。
『――だから。ぼくはぼくの時間がある限り、祝いを届け、呪いを断ち切り続ける。加護戻しってきっと、そういうものだ』
(お父さまもそう言っていた……わたしの力は、絡みついた魔力の糸を、拗れてしまった人の想いを解く、そのお手伝いをすること。頼まれてもいないのに、真実を究明することではない)
ならばこれ以上の詮索も邪推も不要というものだ。
あの二人は親子だ。少なくとも今日から、親子になろうと決めたのだ。
馬車の扉が閉まり、子爵親子が遠ざかっていく。
「……エルマ?」
いつの間にか隣にやってきていたユーグリークが、立ちすくんだままのエルマに声を掛けてくる。
エルマが緩やかに首を振ると、彼はそっと肩を抱き寄せた。
「可愛い子だったな」
「……ええ。本当に」
「女の子も悪くないな。でも、可愛がりすぎるだろうから、やっぱり男の子の方がいいかもしれない」
首を傾げたエルマは、何を言われているのかわかると顔を赤くした。
「気が早いですよ!?」
「半年後には夫婦になるんだぞ? そうしたら、新しい家族のことだって考えないと。遅すぎるってことは、ないんじゃないか?」
「そ、そんな……だって、心の準備が……!」
「それこそしばらくは二人きりでもいいな。一生君を独占できるなら、俺はそれも構わない」
「で、でも……いずれは、その……赤ちゃん……」
「エルマも子どもが欲しいか? 良かった、ここでも両想いで」
「ち、ちが……違わないですけど、うう……!」
両頬を押さえ、にわかに慌て始めた彼女を、ユーグリークは優しく、愛おしい目で見つめていた。




