37.父の自覚 前編
「エルマ!」
「ど、どうしてここに――」
「会いたくなったから」
ちらほら予告なし訪問を行う男は、驚くエルマに早足で近づいてきてから、小さく囁きかける。
「加護戻しを使うと聞いて、倒れてないか見に来た」
「倒れたりなんかしません……!」
「エルマは他人事だとすぐ無理をする」
突如空から舞い降りてきた男に、けれど大分慣れてきたファントマジット一家は立ち直りが早かった。
スファルはぴしりと敬礼し、魔法伯は「どうも、閣下。いらっしゃるのは明日かと思っていました」などとのんびり声を掛けている。
哀れなのは子爵だ。彼はそこまで王城に縁があるわけではない貴族で、ユーグリークのことをそう深く知っているわけではない。お騒がせ王太子の首根っこを捕まえに行ける、すなわち本人もそれなりにお騒がせである近衛騎士筆頭とまともに接するのは、たぶんこれが初めてだったのだろう。
老け顔の貴族はしばし魂が抜けた顔をしていたが、周りの人間の声でどうにか自分を取り戻せたらしい。なんとか慌てて挨拶は口にできたが、定型句が終わるか終わらないかという時に早速また邪魔が入った。
「エルマさま! ねえ! おっきいフォルトラがいる! フォルトラがいる!!」
ぴょんぴょん跳ねてはしゃぐのはルビーニアだ。幼子の様子を、フォルトラがピンと耳を立てて観察している。
天馬という生き物は平均して気位が高く、機嫌を損ねると凶暴に怒り狂う一面もある。フォルトラは大分大人しい性格をしているが、幼子とは得てして生き物に予想外の事故を起こさせるものだ。
エルマはなんとか宥めようとした。
「この子が本物のフォルトラですよ、ルビーニアさま。あの、ただ、あまり大声は……」
「さわってもいい? だめ!?」
「よしなさいルビーニア、危ないだろう!」
「そ、それはちょっと……!」
今にも飛びつこうとする勢いの娘を、子爵が血相を変えて抱え込む。今までは聞き分けの良かったルビーニアだが、今は興奮の方が勝っているらしい。
どうしよう、とエルマが助けを求めて自然を目を向けた先、ユーグリークがふっと布の下で笑んだ気がした。
「フォルトラ」
主人に呼ばれると、かっぽかっぽと音を鳴らして天馬は石畳の上を歩く。
ユーグリークはフォルトラの顔を何度か撫でてから、ルビーニアを手招いた。
「か、閣下……」
「卿、心配ない。……おいで」
「ですが、そんな……」
好奇心でいっぱいの娘より、子爵の方がよっぽど怯えている。ユーグリークが声を掛けても、震える手を娘から離そうとしない。
「大丈夫ですよ、閣下が仰ることですから」
「そ、そうです。大丈夫。絶対に」
魔法伯とスファルバーンが更に言い添えると、ようやく子爵の体からこわばりが少し取れた。
とどめおかれなくなったルビーニアは、大きなぬいぐるみを押しつけるように父に渡し、言われるままフォルトラに近づいていく。
すると白い天馬は首を下げ、顔を幼子に近づけた。
「じっとして。そのまま」
ユーグリークが言うと、ルビーニアはごくりと唾を飲み込むが、スカートを握りしめてその場に踏ん張っている。
やがて天馬は首を上げ、ふん! と一つ鼻を鳴らした。ユーグリークはぽんぽんと体を叩いてやってから、幼子の方に顔を向ける。
「触って良いそうだ」
「……話せるの?」
「まあ、こいつが赤ん坊の頃から知ってるから、何が言いたいのか、なんとなくわかるぐらいかな」
ユーグリークが話している間に、フォルトラが前足で地面を掻き出した。ルビーニアはきらきらと目を輝かせる。
「今のは?」
「……たぶん、ゆで卵をくれ、と言っている」
「ゆでたまご!?」
「天馬は普通の馬と違って雑食だから。こいつの好物なんだ」
ユーグリークと話す幼子に再び興味を引かれたのか、フォルトラが首を下げてルビーニアに顔を寄せる。小さな手が鼻先を何度か撫でると、途端に天馬は首を上げ、くしゅん! と音を立てた。くすぐったかったらしい。
「ね。おじさんはどうしてへんな布をかぶっているの?」
「ルビーニア!!」
ほっと緩みかけた空気が、再び凍り付いた。これにはさすがにエルマも言葉を失う。
大人達が皆顔色をなくした中、ルビーニアはニコニコしている。
「人に見せられない顔なんだ」
「ふーん……?」
ユーグリークは間を置いたが、程なくして静かにそう応じた。
覆面のことについては、それこそ聞かれ慣れているのだろう。一瞬動きを止めた辺り、おじさん呼びには怯んだように見えたが。
「ルビーニア、もうこっちに来なさい。申し訳ございません、娘がご迷惑を……」
「おじさんは、エルマさまの知り合いなの?」
「やめなさいと言っているのに――!」
怖い物知らずの幼子は好奇心のまま質問を続けるが、保護者は生きた心地がしないだろう。
ユーグリークは苦笑したが、気分を害した様子ではない。ルビーニアを捕まえようと手を伸ばそうとする子爵、そろそろ仲裁に入った方がいいだろうかとおろおろしているエルマ、順番に掌を向けて押しとどめる。
「私はエルマの――エルフェミア=ファントマジットの婚約者だ」
「じゃあ、エルマさまとけっこんするの?」
「そうだ。半年後、正式な夫になる」
「けっこんって、おかおが見えなくても、へいきなの?」
「普通の人なら苦労しただろうが、エルマは俺の顔が見られるから平気だ」
「どうして?」
「……類い希な魔法使いだから、かな」
「わあ……」
「それだけじゃないぞ。エルマはな、賢くて勉強熱心だが愛らしくて、素直だが頑固な所もあって、寝顔が可愛――」
「ユーグリークさま。あの、こんな小さな子相手に、何を吹き込んでいるのですか?」
「うん? エルマの良い所自慢」
「やめてください!!」
ユーグリークが怒らないだろうかというハラハラが、良かった案外普通に会話を続けられているという安堵に、そして最終的に恥ずかしい惚気話を披露されそうな嫌な予感に変わり、エルマは情緒の変遷で忙しい。
わなわな震えるエルマを面白そうに見守っていたユーグリークだったが、ふと自分の足下でもうずうずしている少女がいることに気がつく。
ルビーニアの青い目は、天馬の翼、そして背の辺りに釘付けだった。
「……乗ってみるか?」
「いいの!?」
「お父さんの許可が出るなら」