32.大人と子ども 2
「そう考えたのは、なぜ?」
「だんなさまがさわった後、開かなくなったもん。あの人、あたしのこと、すきじゃないし」
ルビーニアは犬のぬいぐるみを抱えたまま、きっぱりと言い切った。あまりにはっきりした物言いに、エルマは戸惑ってしまう。
(この子が嘘を言っているようには見えない。でも、自分で連れて帰ってきた子を冷遇するだなんて――)
『この役立たずのできそこないが! お前がワタシ達を不幸にした! 一生かけて償ってもらうぞ!!』
『姉さまって本当に、なーんにもできないのね……』
瞬間、怒鳴りつける男の声が耳の奥に蘇り、エルマは胸を押さえた。ぶわっと汗が込み上げる。
「……エルマさま。だいじょうぶ?」
「ええ、大丈夫……何でもないの、気にしないで」
「おかぜ? 具合が悪いなら、あたし、見てあげるわ!」
幼子は張り切った様子でエルマの手を引き、近くのソファに導く。エルマは逆らわずに深く腰掛け、思考を巡らせた。
(家族になるためではなく、鬱憤のはけ口に子どもを引き取る人もいる……)
自分の体から警告された気分だ。心臓はドキドキと胸の内側を叩いていたが、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
(もしルビーニアさまが助けを求めているのなら、力になりたい)
ゼーデン=タルコーザは、家の内と外で態度を変える人間だった。子爵家の大人達がそういった二面性を持ち、幼子がそれを理解しているのであれば、他家のこととは言え、黙って見過ごすことなんて絶対にできない。
だがエルマは、義理の親子の不仲は、何かの誤解によって生じているものなのではないか、とも思っていた。
(先代子爵夫人は、お祖母さまのお茶飲み友達。お祖母さまが個人的なサロンへの招待を受ける相手が淑女でないなんて……あまり想像できないわ。ただし、夫人の息子――子爵さまに対しては、お祖母さまもそこまで詳しくない様子だったけど……)
「エルマさま、どう?」
「ええ……楽になりました。ありがとう」
ルビーニアはエルマが考えている間も、ベステラと相談しながら、熱を測ろうとしたり、風を送ろうとしたりと甲斐甲斐しい。今はエルマの手を取って、真剣にのぞき込んでいた。エルマは好きにさせたまま、子爵について問いかけてみる。
「ルビーニアさまは、子爵さまに直接、好きじゃないって言われたことがあるのですか?」
「ううん。べつに、ひどいことはなにもされてないわ。男の人ってきらいだけど、だんなさまはどなったり、ぶったりはしないもの。でも……あたしのことは、すきじゃない。あたしといると、あの人、いつもこまってるもん」
ルビーニアの大きな青い目がエルマを見据え、ぱちぱちと瞬いた。
さらりと幼子は言ったが、こんな小さな子どもが大人に受けた仕打ちを思うと、胸が痛む。
しかし、今はそうではない、とも言っている。
実際彼女は、この前も今日も、子ども用のドレスに身を包み、身綺麗にしている。血色も良く、至って健康そうだ。
(いまいち見えてこないわ……この近づきがたい雰囲気は、一体何なのかしら?)
「ペンダントを預けてくれた時、旦那さまと大奥さまに内緒、って言っていたわね。大奥さまも、ルビーニアさまのこと、好きじゃないって思うの?」
「うーん……大おくさまは、ちょっと違うけど……」
いったん、子爵から夫人に話題を移してみる。義理の祖母にあたる人にも、幼子はあまり懐いている様子ではなかった。
苺髪の少女はぎゅっと眉にしわを寄せる。
「あのね、あたしはね、ベステラだけでよかったの。でも、きたない犬のぬいぐるみなんて、びじゅつ品集めがしゅみの大おくさまはすぐ、すててしまうかもしれない。だからペンダントも持って行きなさい、それなら大人になってもとりあげられないでしょう……ただしだんなさまはべつかもしれないから、だんなさまだけには見られない方がいいかもね、って」
「……ええと。そういう風に、誰かに言われたの?」
「そう。大おくさまはね、だんなさまよりは、あたしのこと、きらいじゃないと思う。おかしもくれるし。でもね、ずっといっしょにいるのは、ちょっと……」
幼子は言葉を濁したが、エルマにはなんとなく通じる気がして、苦笑してしまった。
夫人は善人だが、何しろ話が長い。成人済みのエルマだって、美術品講釈を前にうっかり船を漕いだ。幼子にはとても、ずっと耳を傾けていることなんてできないだろう。
「……でもね。大おくさま、ベステラなんかぽいしなさいって、言わなかったわ。おせんたくしましょうは、言ってたけど」
ルビーニアはくたびれたぬいぐるみを撫でながら、小さな声で言った。どうやら老夫人に対しては、警戒しつつも徐々に解けてきている所のようだ。
「あたし、だからだんなさまもそうなのかなって思ったのかも。大おくさまだってベステラにやさしかったんだから、だんなさまもペンダントを気にしたりしない――でも、だんなさまはゆるしてくれなかった」
(まだわからないこともあるけれど、前より事情はわかってきたわ。それにしても、ルビーニアさまの元保護者――おそらくお母さまなのでしょうけど、気になるわ。随分と子爵家の内情に詳しい。というより、詳しすぎる。夫人の趣味についてもそうだし、何よりペンダントのことまで知っていたなんて、一体――)
「エルマさま、そろそろ具合はよくなった? 聞きたいことは終わり? なにか役には立った? もう開けられる?」
くいくいと小さな手に引っ張られ、思考が打ち切られた。エルマはもたれかかっていた体を起こしてソファに座り直す。
「ありがとうございます、ルビーニアさま。もう気分はすっかり。ただ……」
「まだなにか、気になることがあるの?」
上目遣いに見上げてくる幼子に仕草で促してみると、彼女は嬉しそうに、エルマの横によじ登ってくる。
いそいそ身を寄せてきたルビーニアに微笑みを向けてから、エルマは静かに、ゆっくりと言い聞かせる。
「あのね、ルビーニアさま。わたしがペンダントに最初に触れて、加護を見ようとした時……驚きと、戸惑いと、それから――深い悲しみ。そういった気持ちが、伝わってきました」
「おどろきと、かなしみ……?」
「そう。加護、祝福、呪い――強すぎる気持ちの渦が、流れて、線に、糸になって――けれどそれは、けして怒りや恐怖ではなかった。だから……旦那さまはあなたに、意地悪をしたくてこんなことをしたのではないように感じるの。あくまでわたしの、印象ではあるけれど……」
「……わざとじゃない、じこだった、ってこと?」
「そうかもしれない。もし意図があってしたことなら……どうしても開けられたくない、事情があったのかも」
開けようと思ってペンダントに触れたとき、エルマには雁字搦めの糸が見えた。強すぎる、守りの意思。外部への拒絶でありつつ、内部への保護の想い。
「ルビーニアさま。ペンダントの中に何が入っているのか、聞いても良いですか?」
ルビーニアはエルマの言葉を噛みしめるかのように、しばらく黙り込んでいた。
ようやく一言だけつぶやいた言葉は、とても小さいもので、気をつけていなければ聞き逃していたかもしれない。
「あたしよ。あたしがベステラより大事なものを見つけるまでは」
ルビーニアはぴょん、とソファから飛び降りた。エルマの前までやってくる。
「エルマさまのお話しはむずかしいわ。でも、たぶん、だんなさまの理由がわからないと、ペンダントを開けられない、って言っているのよね?」
「……はい。その通りです。だから……わたしから旦那さまに、ペンダントのことを聞いてみてもいい……?」
「エルマさまはすごいまほう使いさまで、あたしとベステラの友だちだもの。しんじるわ。あたしはちょっと、むりだけど……エルマさまなら、できるのかもしれないもの」
幼子は笑う。その信頼の重みをずしりと感じた。
エルマ=タルコーザであれば、期待への重圧に耐えられなかったことだろう。
だが今は応えたい、と思っていた。自分にはその力がある、と感じていた。
ほのかに菫色に変わった目には、決意が強く宿っている。
「承りました、お客さま。あなたに絡みついた想いの糸を、必ず綺麗にしてみせます」
――そして、自然に、吸った息を吐き出すように。
かつて父が依頼人にかけていた言葉を、エルフェミアは紡いだ。