9.呪いと取引
エルマは惹かれるように振り返った。
つかまえた手を離さないまま、男は店内をそっと見回す。少なくとも見える範囲には、客も店員もいない。
彼はもう片方の手で、布を上げた。
昨晩月明かりの下で見た美貌がまた顔を覗かせる。
銀色の目が、淡く光り輝いていた。
見つめ合うとまた、エルマの体が熱くなっていく。握られている手が、火でもつけられたようだ。
暴れそうになる熱を、目を閉じて集中し、意識して押し殺す。
再び目を開けた時、ぽつ、と男が口を開いた。
「やっぱりそうだ。どういうわけか、君には私の“呪い”が効かないらしい」
「……のろ、い?」
「普通の人間は……なんというか。私の顔、特にこの目を直視できないんだ。魅入られて、おかしくなってしまうから」
他の人間がこんなことを言えば、失笑されるか眉をひそめられるところだろう。
だが尋常でない整った容姿を持つ男が言うと、説得力が違った。
彼と見つめ合って平常心を保てなくなってしまう人間の姿が、容易に想像できる。
例えば彼に微笑まれただけで、のぼせたような、酒を飲んだような状態になる人間が出ると言われたら、むしろ深く納得してしまう。
実際にエルマだって、おかしな感覚は体験しているのだ。
(それで、いつも顔を隠す布を……)
そういえば最初に会ったとき、彼は喧嘩をした相手に背を向けていた。あれは布を斬られて顔が出てしまったから、見られないようにしていたのか。
相手が大人しく去ったのも、直視すればただでは済まない顔面事情を知っていたからだったのかもしれない。
それにエルマと目が合った時、真っ先に顔、特に目元を隠そうとしていた理由もわかった。
「昨日、月明かりの下とは言え、君は私の顔を見てしまった。それなのに、抱きついてくることも、押し倒そうとしてくることも、いきなり服を脱ぎ出すこともなく、普通に接してくれた。それどころか、この布だって直してくれた。こんなことは、両親以外で初めてで……だから、これきりにしたくない。君のことをもっと知りたい」
「えっと……あの……」
「迷惑をかけたいわけじゃないんだ。今日はもう時間がないなら、これ以上邪魔はしない。だけど、また会いたい。ここでもいい。家でもいい。君の好きな場所でいい。落とし物なんかなくても、話がしたい。駄目か?」
「こ、困ります。そんなこと言われても……」
「困る。が、駄目ではないんだな?」
「う、うう……!」
エルマはタルコーザ家の所有物だ。勝手は許されない。
だからなるべく穏便に事を済ませ、さっさとお互いなかったことにしてもらおうと思った。
お茶の一杯に付き合ったのも、それでこの件が落ち着くなら、と考えてのことだ。
しかし、相手が予想外に、諦めてくれる気配を全く見せない。
そして落とし物の件であれば多少強気になれたエルマだが、基本的にはタルコーザ家の従順な奴隷だ。否と強く言うことに慣れていない。
しかもまったく予想もしなかったことを言われ、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
(お父さまとキャロリンさまの知らないところで、わたしの勝手は許されない。だけど……どうしよう、どうすればいいの? わからない。ああ、困っているなら少しだけお力になって、それでお互いに気持ちよく終わることができるかしらと思っていたのに、慣れないことなんてするから。そもそもラティーを――)
はっとエルマは思いついた。この状況を動かす妙案を。
しかし、なんだか昨日も似たような場面を見た記憶がある。
やめておけ、熟考すべきだ、と頭のどこかで冷静な自分が警告するのだが、いかんせん彼女はこの時点で軽度のパニック、訳がわからなくなっていた。
おまけに帰りが遅くなれば、父のひどい折檻が待っている。
なんとかつかまれている手をふりきらなければならない。力尽くでは無理だ、先ほど店内に連れ込まれた時に実証済み。
ならば。
(――今はもう、これしかない!)
「ラティー、を……」
「うん?」
「今、ラティーを持っていらっしゃいますか?」
「え? いや……昨日はたまたまもらい物を押しつけられて……あ、でも変な相手ではないんだ。いや間違いなく変人ではあるが――そんなことはどうでもいいか。それで、そのラティーがどうかしたのか?」
「あれをもう一度……今度はかご一杯。今日中にご用意していただけるのなら――」
(もう一度、お会いします)
だんだんと言葉が小さくしぼんでいき、最後の部分に至っては口に出せなかった。
勢いで語り出したはいいものの、実際自分の耳で言葉を聞くと、大分おかしなことを口走っている自覚が身に染みてきたからだ。
(でも、ラティーは季節外れの高級品。しかも日も傾いてきたこの時間に、今日中にかご一杯だなんて、用意できるはずがない。だからこそ……昨日はたまたま、ということなら。こんな非常識なことを言う人間なんて、幻滅する、はず……)
ぎゅっとつぎはぎだらけのエプロンを握りしめた。
せっかくエルマをどなりつけない人間に出会えたのだ。正直、この選択は辛い。
だが、タルコーザ家の事を考えれば、これ以上見知らぬ相手と関わるべきではないだろう。
特に今は、キャロリンの社交界デビューを控えているのだから。
しかし、エルマは忘れてはならなかったのだ。
目の前にしている男が、大体常に彼女の予想を超えてくる人物であった、ということを。
「君はあれが、そんなに好きなのか?」
「わたしではないですが。必要としている人がいるのです」
「ふむ。まあ何にせよ、用意すれば君が助かると」
「え、ええ……そうです、けど」
「わかった。なんとかしてみよう」
(どうして「無理だ」とか「恥知らず」とかの言葉が出てこないのでしょう……!?)
かなり前向きに、まるで充分実現可能な物を前にしているかのような相手の態度に、エルマは激しく動揺する。
「しかし籠一杯を準備するとなると……この場ですぐとは、さすがに行かないな。今日中なんだろう? どこに届ければいい?」
「あの……申し上げた方が言うのもどうかとは思いますが、その――」
これは今からでも失言を撤回した方が、と危機感を覚えたエルマだったが、時既に遅し。
「君の家は? あの幽霊屋敷か?」
「えっと……お屋敷には、はい。確かに、いますけど……」
「なら決まりだな。それじゃ念のためこれはもう一度預けておく。ラティーと交換だ」
ひょいと投げてよこされた物を咄嗟に受け取ってしまい、エルマは悲鳴を上げかけた。
返却したはずの指輪がまた手の中に収まっているではないか。
男はエルマが慌てている間に、さっさと店内を歩いてしまった。入り口で最後に、一度だけ立ち止まる。
「今日中にラティーを持ってこられたら、君は私と友達になる。約束だからな?」
今はもうまた隠されているが、きっと覆面の下では笑顔なのだろうと感じられる。
彼の姿が見えなくなってから、エルマははっ! と我に返る。
色々と後悔しきりだが、完全に後の祭りだ。
(どうしてこうなるの――!?)
おまけ~そういえばまだ名前も知らない~
「あの……お会計……」
「もう済んでますよ? ここに入ってきたときにぽんと、釣りはいらないって。怪しい格好でしたけど、良い彼氏さんをお持ちですね!」
「違います、全然知らない人です!」
「…………。えっ?」