21.月と太陽5
婚約者のいる相手に白い薔薇を贈る――ほぼ宣戦布告の行動を取られたエルマは、ついに頭が真っ白になってしまっていた。
想定外だったのは彼女だけではない。ガリュース以外のその場の全員がしんとなり、顔色を失っていた。
ガリュースはその中で、ただエルマをじっと見据えている。
「ガリュース殿下――」
さすがに洒落にならないと思ったのだろうか、大人しかったベレルバーンが何か言おうとする。けれどその言葉は思わぬ相手の乱入によって切れた。
「……何の真似だい?」
王子が眉を顰めた先――薔薇を差し出す彼とエルマの間に割って入ったのは、今にも倒れそうな有様のスファルバーン=ファントマジットだった。いや、先ほどまで実際に、芝生の上に転がっていたのだ。兄に突き飛ばされて、無様に腰を抜かしていた。
誰もが一度は目を疑った。けれどスファルバーンはぶるぶる震えながらも、エルマの前から退こうとしない。
「お、おおお、おた、おた……」
「引っ込め、スファル。見苦しいぞ!」
ただでさえ滑らかではない言葉がさらに切れ切れになり、兄は顔を顰めて叱咤した。
「スファルバーンさま――」
エルマもようやく驚愕から立ち直り、背中に呼びかけた。すると気弱な従兄弟は大きく息を吸い、足下に目を向けたまま、それでも続きを喋り出す。
「お戯れは、お、おやめください――で、殿下……」
「無礼だぞ。見苦しいだろうが!」
「……私はエルフェミア=ファントマジットと話していたのだけど?」
ベレルバーンはなおも冷たく退場を命じ、更に第二王子が微笑の圧をかける。
それでも青年は脂汗を滲ませながら退かなかった。
「オ、オレは――い、いいんだ。さ、最悪、ふ、不興をか、買っても――や、役立たずの、次男、だか、ら。い、いなくなっても――に、兄さん程は、こ、困られ、ない」
「そんなことは――」
思わず声を上げたエルマの目の前に、止めるように手が出される。
自分より優れている兄と、自分より身分の高い王子。その二人と目は合わせられずとも、スファルバーンはけしてそこから動こうとしない。
「そう? 君が私の機嫌を傾けたせいで、君の家は苦労するかもしれないよ?」
「殿下――!」
「いいえ……いいえ。殿下が、ご自分で、な、何かできるのは……オレ一人、で、す」
にこやかに自らの権力で家に害を及ぼす可能性を告げられると、兄は狼狽え、弟は緩やかに首を振る。
スファルバーンはもう一度息を吸い――ようやく顔を上げた。ガリュースの冷ややかな目を見ると挫けそうになるが、何度か浅い呼吸を繰り返してから声を絞り出す。
「だって――エ、エルフェミアは。か、閣下の――ジェルマーヌ閣下の、婚約者、なんだ。氷冷の魔性――その人の、最愛の人、なんだ! たとえ、あ――貴方だろうと。ぞんざいに扱えない。……ファントマジット、も」
律儀で愚かな青年は、愚直に掛けられた言葉を守ろうとしている。
だが、彼の抵抗などささやかなもので、今にも吹けば飛んでしまいそうだ。
第二王子が首を傾げた。ぞく、と見つめられた方に悪寒が走る。
「でも、まだ婚約者でしょう? 私はただ、仲良くしたいだけだよ」
「で、では……そう、ふ、振る舞って、下さい。し、白薔薇を、差し出すのは――失礼な、ことです」
「スファル!」
「……へえ」
緊張がより高まり、ベレルバーンが顔色をなくした。第二王子より自分が前にいれば、再び弟につかみかかっただろう。
スファルバーンはとうとう目眩を覚えて立ちくらみそうになる――その体を、華奢な手が支えた。
「エ、エルフェミア……」
時間を稼いでもらったことで、再び落ち着く事ができた。
エルマは目で「大丈夫」と傍らの青年に返してから、王子の前に歩み出て――深々と頭を下げた。
「殿下、ご無礼をお許しください。高貴なお方から、わたくしのような取るに足らない者にご指導を賜るのは、これ以上ない栄誉にございます」
「……つまり、踊りの申し込みを受ける、と?」
「はい」
スファルバーンが口を開けたまま首を横に振り、ガリュースは勝ち誇ったような顔になった。
けれどエルマは、そこですっと頭を上げる。
「ですが、わたくしがお受けするのは一曲のみです。それに、その花は受け取れません。もういただいて、手が一杯ですの」
花ならもう充分、お互いに溢れるほど貰っていて、今更誰か別の人間の入る隙間なんてない。それは単純にして、絶対の事実だった。
(義理と礼儀ならお受けします。こちらも精一杯、つたなくともお返しいたします。でも、それ以外のものはいりません――ユーグリークさま以外のどなたからも)
エルマはにっこりと笑った。
それは取り繕いの薄皮などではなく、愛されている者の自信が生み出す、温かく確かな微笑みだった。
男達の視線が釘付けになる――そこにがさがさっと音を立て、また新たな闖入者が踏み入ってきた。
「――王太子殿下、何故ここに!?」
「ややっ、その声はいつも我が愛しの弟にぶら下がっている取り巻きその一ではないか! ということは――これはなんとしたことだ、ガリュース君! 一体全体どうしてこんな所にいるのだい!?」
狼狽える護衛をあっさりと杖で押しのけ、金髪碧眼の王太子が実にわざとらしい、芝居がかった素振りと台詞で現れた。
――いや、いつもと違う。瞳が仄かな金色を帯びているように見える。
頼もしい知り合いの姿にエルマはぱっと顔を輝かせ、反対に第二王子は一瞬ものすごく嫌そうな顔をしてから、表面上は社交的な笑みを取り戻した。
「……騒がしいですね。兄上こそ、用を足すだけのことにどれだけ時間をかけているのでしょう?」
「花を摘みに行くと言っただろう。僕の想像以上に可憐で美麗な花が色とりどりあちらこちらに咲き誇っていて、どれを愛でるべきか悩んでいたのだ」
(それってつまり、全く懲りずに女性を物色していたという意味なのかしら……?)
いつも通りと言えばいつも通りではある。
エルマは若干気を遠くしかけたが、ふと泳がせた目が隣の従兄弟に移ると今度は慌てた。
スファルバーンは完全に白目を剥いており、次は口から泡を吹き出しそうな様子である。
兄に加えて第二王子との胃痛が過ぎる対峙に、今度は周囲の調子を崩しまくる自由人王太子の登場――キャパシティオーバーになるのも無理はない。
エルマは小さく従兄弟に声を掛け、芝生の上に腰掛けさせた。
その間にも、表向きは和やかな談笑という光景で、けれど言葉のそこかしこに隠しきれない、というより隠そうともしていない棘満載の会話を王子二人が繰り広げている。
「これだから兄上は。父上はそんな破廉恥なこと、お許しになりませんよ」
「ええ~、真面目に結婚相手探せって言ったばかりなのにぃ~?」
「そうです、お一人の伴侶を見つけよという仰せであり、断じて女遊びを激化させろという意味ではないでしょう?」
「あっはっはっはっは、ピチピチの新成人が爺臭いことを言ってんじゃないよ、禿げるぞ」
「禿げるとしたら年功序列、兄上が先では?」
(そ、想像以上に直截的に仲が悪い……!)
何故ユーグリークが第二王子の話題を全く出さないのか、今改めてなるほどこれが理由か、と噛みしめていたエルマだったが、ヴァーリスの顔がこちらの方を向いたので反射的に姿勢を正す。
「まあお前はついでだ、ついで。こちらにエルフェミア=ファントマジットが来ているはずだな。どこにいる?」
「……いるかいないかで言えば、ちょうど親睦を深めていた所でしたが――」
「だそうだ、ユーグ」
ガリュースが渋々な様子でエルマの所在を告げると、ヴァーリスはよく通る声を張り上げた。
すると音もなく背の高い男が姿を現わす。
それまでガリュースの取り巻きと護衛は、突然の王太子の出現に呆気に取られつつも、時が経つにつれて主人と同様邪魔に思う感情が表に出始め、追い返そうとすらする気配を見せ始めていた。
けれどその男が通り過ぎると、体の芯に突き刺さるような冷気を感じて全く好戦的なことは考えられなくなる。
ユーグリークはその場の全ての男達を――二人の王子さえ無視して、一直線に横切り、エルマの前までやってきた。
彼は膝を突き、じっとエルマを見つめる。
「エルフェミア、探したぞ。急にいなくなるから心配した」
優しく、甘やかな声だった。
普段冷ややかで素っ気ない氷冷の魔性の姿しか知らない者達は一斉に動揺し、「何だ今の声、幻聴か!?」「いやお前も聞こえたんならたぶん現実……」などと小声を交わし合うことになった。