11.誘いと微笑み3
スファルバーン=ファントマジットとの何とも言えないお茶会を経てから、エルマは自然と祖母にくっついて回るようになっていた。
元々祖母はエルマが社交界デビューするに当たっての最も身近な先生だったし、女同士の家族なのだ、さほど不自然ではない。
「エルフェミア、何かあったの?」
「い、いいえ……」
相変わらず察しのいい老女に問われ、エルマはぎこちない笑みを浮かべた。
手元に目を落とせば、真っ白なままの布が目に入る。
針を動かしてはいても、文字通り糸を通しているだけのような状態で、これではとても縫っているとは言えない。
全く身に入らない裁縫作業、前にもこんなことがあったような……と嘆息する。
(でも、あんなことを言われたら――ファントマジット家が、本当はわたしとユーグリークさまの婚約を歓迎していないかもだなんて、お祖母さまに聞けない)
祖母なら真意はどうであれ「そんなこと考えていない」と返すはずだ。それではエルマのモヤモヤは取れない。
(困ったわ。ここがジェルマーヌ邸なら、ニーサさんやジョルジーさんに――)
「誰かに気になることでも言われたのかしら?」
ちょうど針を持っていないタイミングで良かった。エルマはぐしゃっと布に皺を作る。
(そう、そこがわからないから、なおさらモヤモヤしているのです……!)
誰かは明白だが、気になること、の部分が曖昧だからなおさら悩んでいるのである。
「好きです、付き合って下さい」であれば、「もう既に心に決めた人がいるんです、ごめんなさい」と返せた。
が、何なのだあのものすごく消極的な、それでいて意味深ではある気持ちの示し方は。
結局好意を伝えられたということになるのか? あんな自虐たっぷりに?
しかもあの後、エルマが呆然としている間にそそくさと逃げられてしまった。
こうなってしまうと、追いかけ回して白黒はっきりつくまで問い詰める――とは行かないのが、エルマの性格だ。
(……でもこれは、いい機会かも。きっとこの先、相手がどう考えているのかも、自分がどう振る舞えばいいのかもわからない時ってあるわ。社交辞令なのか、違うのか、その時どう返せばいいのかは、ファントマジット家の問題とは別に、経験豊富なお祖母さまにお聞きして悪いってことはないはず……!)
「お祖母さま。その、例えばの話なのですが」
孫の手が止まっている間も祖母は手際よく手を動かして、得意な薔薇の模様を作り上げていた。
エルマのある種お約束な定型文句にピンと眉を跳ね上げるが、邪魔はせず目で続けるように促してくる。
「これから社交界に出て……それなりに見知って、お会いすれば楽しくお話できるような人ができたのですが、あるとき花を贈られて……友愛なら受け取らないと失礼になりますし、けれどそれ以上を望まれているのならお断りするしかない。でも、相手の態度も曖昧で、どちらとも取れない。そんなときは、どうすればいいと思いますか?」
「こちらにはその気のない相手なのよね?」
「そ、その気……?」
「そうよ。相手がどうかより、まずは自分がどうありたいか。だって相手に好かれていても嫌いな人は嫌いなままだし、嫌われていても好きになってしまったら早々無関心には戻れないでしょう?」
確認されて早速怖じ気づくエルマだが、祖母は特に気にした素振りはなく、さらさらと続けていく。
「曖昧な可能性を持たせていた方が有利になるのなら、そのままにする。でも思わせぶりにする意味がないなら、自分の立場を明確にすることね。ただ、やり方は相手に恥をかかせないようにすること。そうね――例えばわたくしが、その気のない相手に急に薔薇を贈られたら、互いの友情への感謝を口にして受け取るわ。それで話は終わり。その後わたくしから追及することもない」
「な……なるほど……!」
エルマは引きつった笑みを浮かべた。なるほどやっぱりごもっともなお答えだ。祖母であれば臆せず動じず、容易に成し遂げるのだろう。
「あの、お祖母さま、もう一つ……わたし、予想外のことが起きると、咄嗟にうまく振る舞えなくて。どうしても、思考も体も固まってしまって……どうすればいいのでしょう?」
せっかく返し方を知っていて準備していても、いざその場になった時頭が真っ白になってしまってはどうしようもできない。
これはユーグリーク相手の時にも言えることだ。
彼に対しては、翻弄されるのがけして嫌というわけではないが、あたふた振り回されるだけではなく……きちんとついていきたい、というか。
祖母は初めて作業の手を止め、すっと視線をこちらによこした。
「笑うのよ」
「……はい?」
「一歩も動けなくても、何も頭に浮かばなくても、笑みという武装だけは身に纏うことができる。だからどうしようもできない時ほど、笑うの」
そう話している間の祖母にも、いつもの笑みがあった。静かな自信に満ちた、品のある――不敵で魅力的な、微笑みが。
エルマはピンと背を伸ばす。
「そしてその武装の鍛え方はね。うんと愛されて、愛することよ。――さ、わたくしの縫い物はこれで終わり。何かの参考になったかしら?」
「は、はい……!」
「刺繍では身が入らないようですもの。裁縫道具は片付けて、運動の時間にしましょうか。さあ、ダンスの練習よ!」
祖母に促され、エルマは慌てて立ち上がる。
(どうしようもできない時ほど、笑う……)
ファントマジット家のあれこれについては、まだまだ簡単には片付かなさそうだ。
けれど、顔を上げたエルマの目には、きらきらとしたやる気の光が戻ってきていた。
「スファルバーンさま」
ダンスレッスン後、部屋に戻る途中の廊下でちらりと見えた影を、エルマは呼び止める。びくっと青年が振り返る。
「この前のお話しですけれど――」
「あ、あああ、あれ、よ、余計な、こと――」
「わたしのこと、心配してくださったんですよね。わたしはあなたのお兄さまに身の程知らずと罵られても、あの場で何も返せなかった。違う、と言い切れない――それはわたしがあなたと同じ、ずっと役立たずのできそこないと呼ばれてきた人間だったせいも、あるのでしょう」
従兄弟は視線を揺らし、今にも逃げ出しそうな様子だったが、エルマが素早く続きを話すと、動きをピタリと止める。
「ジェルマーヌ公爵家との婚約が、わたしには重すぎるだろう、って。もしうまくいかなくても、ここに戻ってきていいって……そういう意味で、仰っていただいたことだったんですよね?」
エルマはすっと息を吸う。
(――笑顔は武装。最後まで残っている力。笑う。でも絶対に――嗤わない)
微笑みを浮かべ、見据えた先には、焦げ茶の双眸が――エルマと同じ色の目が、揺れながらじっと見つめ返していた。
「ありがとうございます、スファルバーンさま。でも、大丈夫です。今はまだ、知識もないし、自信だってないし、あなたのお兄さまにここにいるべきじゃないって言われた時、すぐに違うって返せない。社交界に出て、嫌な思いもたくさんして、うまくできないことだらけかもしれない。でも……試してもいないうちから諦めたくないし、諦めるつもりもない。だってわたし、ユーグリークさまのことが大好きだから」
釣り合わなくても好きなのだ。気持ちは変わらない。
とは言え、周りからふさわしくない、と改めて言われると辛いし、言い返せない。
いや、あえて言い返す必要はないのかもしれない。
お前なんかと言われた時、俯いて黙り込まず、真っ直ぐ背を伸ばしたまま、微笑みを返せる人になる――それがたぶん、今のエルマの目標だ。
(そして、昔のわたしを嗤わない、置き去りにしない……そんな人になりたい)
「……エ、エルフェミアは。つ、強いんだね。兄様と、一緒……オ、オレなんかと、全然、違ったや」
青年はまじまじと従姉妹を見つめてから、にひ、と笑った。
彼は笑い方が下手くそだ。慣れていないのだろう。エルマはもう一息、深呼吸した。
「スファルバーンさま、ダンスはお好きですか?」
「……え。ダンス……?」
「もし、踊りたいのでしたら。わたしでよろしければ、練習相手になります。あなたはどうなさりたいの? わたし、できる限りで力になりたいです。……従兄弟ですもの」
体を押されたように、従兄弟はよろめいた。あんぐりと口を開け、しばらく立ち尽くしている。
「……オ、オレ? オレが、どうしたいか……?」
「はい」
エルマは笑みを続けた。相手が安心してくれるような笑みを――おっかなびっくりしていたエルマにずっと微笑みかけてくれた、かつてのユーグリークを思い出しながら。
スファルバーンは黙り込んでいたが、ぽつ、とやがて小さく零す。
「お、踊るの、嫌い、じゃないんだ。しゃべ、らなくて、いいし」
「…………! でしたら、是非。あの、でも……わたしの婚約者はユーグリークさまですから、その……それだけは……」
エルマが慌て出すと、従兄弟はきょとんとしてから、困ったように眉を下げ、くしゃりと表情を崩した。
相変わらず彼の笑みはぎこちないが――その時はなんだか、とても楽そうな顔に見えた。