7.貧血とお茶
エルマの体がぐらりと傾く。
そのまま地面に倒れていきそうになったところ、腕をつかまれた。
瞬きして視界を取り戻せば、覆面の男がぼやけた視界に映り込む。
「どうした? 具合が悪いのか?」
「大丈夫です。いつもの立ちくらみで……」
おそらく、慣れきった空腹によるものだ。今心臓が止まるかと思うほど驚いたのもあったが、少しふらつく程度ならよくあることだ。
しかし、やっぱり昨日の覆面だ。
昨晩からの鮮明な幻覚が継続しているのだろうか。それはさすがに無理がある。
大体幻なら、ふらついた体を支えたりはできないだろう。
ぐるぐる考えていたら、また目が回る気がしてきた。
(端にでも寄って、休めばすぐ……)
エルマはそう考えるのだが、動けない。男がじっと見つめたまま、手を離そうとしないためだ。
「顔が真っ青だ。医者を呼ぼう」
「……! そ、そんな、大げさなものじゃないんです。その辺りに座っていれば、治りますから」
「大げさかどうかは専門家が決めることだ。素人判断はよくない――」
「ほんとうに、お医者さんはいりませんから!」
消え入りそうだった口調が、つい強くなる。
昔、同じように空腹で倒れたことがあった。
親切な人が医者に連れて行ってくれたが、うっかり病院のベッドで眠ってしまったのが悪かった。
目覚め次第、引き止められるのを振り切って大急ぎで帰ったものの、出迎えた父の怒りはすさまじかった。
エルマは散々痛めつけられた後、窓もない倉庫に三日閉じ込められた。その間、食事も水も許されなかった。
それ以来、エルマにとって医者にかかるとは命をかけることと同義になっている。
つかまれていた腕が自由になり、エルマはほっと息を吐き出した。
しかし次の瞬間、足下の感覚が消え、ふわっ、と体が浮く。
エルマはきょとんとし、何が起きたのか悟ってからはぎょっとする。
「な、何を――!?」
「軽いな! やっぱり君、痩せすぎなんじゃないか?」
男はエルマのことを横抱きに抱え上げてしまったのだ。
真っ赤になって抗議しようとするが、全く抵抗が通用しない。
布の下には女性的にすら見える顔立ちを隠しているくせに、かなり力が強い。
「医者はまあ、嫌う人間もいるからな。で? 座っていれば治るんだろう?」
「こういうのは、座っているとは言いません……!」
「うん? だから座ることのできる場所に移動しようと思っていたんだ。それともこのまま休んでいくか? 私は構わない。これはこれで楽しい」
「構ってください、楽しまないでください、結構です! それに、自分で歩けます……!」
「そういうことはまともに両足で立てるようになってから言え。生まれたての子馬のようにガクガクしていたぞ?」
「そこまで震えていません――!?」
一生懸命両手をつっぱって胸板を押していたエルマだったが、はっと周囲を見回した。
往来の人間達が、好奇の目をこちらに向けている。
(…………!!)
体を小さくして視線を避けようとすると、自然としがみつくような格好になってしまった。
そうこうしている間に、男は大股で歩みを進め、手近な飲食店に足を踏み入れる。
「君、奥の席は空いているか。この人の具合が悪くなって、少し落ち着いて座っていられる場所を貸してほしい。もちろん注文もする」
掃除の手を止めて振り返った店員の愛想笑いが、身なりの良さそうな覆面を見て凍り付く。
次に彼が抱えている粗末な格好の娘の姿を、思わず二度見した。
開いたままの口からは、いつまで経っても営業文句が飛び出てこない。
「……空いていないのか?」
少し待ってから男が再度声をかけると、途端に止まっていた時が動き出した。
大慌ての店員は、希望通り、人目につきにくい奥側のテーブル席を案内する。
男はエルマを椅子に下ろすと、さらっと向かい側の席を確保した。
ついでに飲み物の注文も済ませ、まもなくジュースが運ばれてくる。
当然のようにエルマの分もあったので、彼女は驚き、うろたえた。
父や妹と外出すると、エルマがもらえるのは水だけなのに。
「飲むといい。喉がすっとする」
「あの……でも……」
「苦手な味か? では別の――ああ、そうか。他人の頼んだ物を口に含むのが不安であれば、自分で何か注文するといい。気を悪くしてはいないから安心しろ。むしろ、勝手にやってしまってすまなかった」
「ちが、あの、えっと……!」
やっぱり何かこう、ズレている。
悪人ではなさそうなのだが、ちょっと――いや大分強引だし、色々予想外を突いてくる男だ。
しかし先ほどの経験を踏まえるに、全面的な反抗姿勢はよくない、というかあまり意味をなさないようだ。
(下手な抵抗を続けるより、ある程度あちらに合わせた方が早く帰れそうだわ……)
エルマはジュースは遠慮することにして、財布からすぐに出せる価格帯の飲み物をそっと注文した。
お茶が来るのを待っている間、ふと気がついたことがある。
(そういえばこの人、覆面をしていては、飲んだり食べたりってできないのではないかしら?)
どうするんだろう、と目を向けると、ちょうど男が果汁入りのコップに手をつけたところだった。
彼はもう片方の手で胸元ぐらいまで垂れている布をめくり、その下にコップを持った手を滑り込ませているようだ。
(ああ、なるほど……)
感心するのと共に、非常に面倒そう、と素朴な感想も抱いた。
ちょうどそこで、男がこちらを向いた気がした。目が合ったように感じて、エルマは慌てて頭を下げる。
「お礼を言うのが遅くなりました。気をつかっていただき、ありがとうございました。一杯いただいたら、帰ります」
「別に大したことは――茶を一杯? それだけ?」
「はい、お茶を一杯だけ」
本当はこうして店で休んでいること自体、父を怒らせる行為だ。
が、彼は妹のキャロリンを社交界にデビューさせるため、貴族に関係する所に足しげく通っているらしい。
おそらくこんな所には来ない。
(それに、昨日あれだけ探し回っても、ラティーはなかったのだもの。今日だって……そうだ、ラティー!)
「あの……昨日はごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「ん? ああ! よかった、口に合って。それより、やはり茶一杯というのは……せめてこう、何か食べていかないか? 一口だけでも」
「あまり帰りが遅いのは、よくないので……」
「医者が駄目なのもそういうことか。随分と厳しい所に仕えているんだな」
男はある程度、エルマの事情を察してくれたようだ。
ほっと息を吐いたエルマのお腹が、きゅー、と音を立てた。
慌ててお腹を押さえるが、それがかえって音源を特定してしまうと後で気がつく。
(も、もう! 昨日といい、どうしてこう……!)