8.息抜きとおねだり 後編
エルマとしては、至らぬ自分の背中を少し押してもらいたい、というような気持ちである。
しかし言われた方は激しい動揺を見せた。
「な、慰め……俺が、エルマを……?」
「えっと……そんなに難しいことだったでしょうか……?」
「……食べてから考えないか?」
ユーグリークが示すのはほとんど減っていないサンドイッチだ。
そもそもエルマに至っては、最初の一つも食べ終えていない。ごもっともな指摘である。
「そうですね、失礼しました」
「い、いや……」
そこから二人が昼食を終えるまでは、無言の時間が続いた。
ユーグリークはそわそわしながらあっという間に自分の分を片付けてしまい、どことなく手持ち無沙汰な風情である。
するとそれまで少し離れた場所で草を食んでいたフォルトラが近づいてきて、エルマに――彼女がまだ持ったままのサンドイッチに鼻先を伸ばしてこようとする。
「おい。お前の食い物じゃないぞ」
ユーグリークが止めると、白い天馬は文句を言うように耳を伏せて首を振った。
しかしそうやって粘ってみても、おこぼれが貰えるわけではないということは理解したらしい。
興味を失ったようにまた離れていき、草をもしゃもしゃしている。
「卵のにおいがわかったのでしょうか?」
「さあ? エルマは優しいから、ねだれば何かくれるとは思っているかもしれないな」
「やっぱりわたし、卵係なんですね」
「いや、それだけじゃない。……たぶん、加護戻しだと思う」
エルマは首を傾げた。新年に会った時も、そういえばユーグリークが何か言おうとしていたことを思い出す。
ランチの残りを少し急ぎ目にいただきながら見守っていると、ユーグリークはフォルトラの方に目を移して話し始めた。
「加護戻しは歪みを正す魔法だ。天馬は魔法生物――人間よりもっと魔力の流れに敏感なんだ。エルマが魔法の流れを整えてくれる存在だということを、フォルトラはわかっているんだと思う」
「でも……わたし、フォルトラに触れている間、特に魔法は使っている、というようなことはなかったと思いますが……」
「そうだな。触ったらすぐに目が菫色に変わる、というようなことはなさそうだった。……まあこれは特に裏付けがあるわけじゃない、俺の勘みたいなものだ。エルマは天馬に好かれやすい体質だと思う。フォルトラ以外はもっと気性が荒いから、好かれるのもそれはそれで苦労しそうだけどな」
ため息を吐く彼の言葉を聞きながら、エルマはごくんと、最後の一欠片を無事腹に収める。
亡くなった父、アーレスバーンから継いだ特殊な魔法――加護戻しについては、未だわかっていないことも多い。
他の魔法――例えば水や火、風を操るような一般的な物であれば、心得のある者は少なくないし、教師もいる。
しかし魔法伯に継承される古代の魔法は、素養のある者のみが感覚で扱うものであるらしい。
エルマには加護、あるいは魔法の流れが、糸のように見える。切れたりほつれたり、あるいはからまったりする流れを解いて綺麗に整えてあげること――それが彼女にとっての加護戻しだ。
他の人間には、例えば動かなくなった時計が針を進め始めたり、鳴らなかったオルゴールが歌い出す現象として見える。
加護戻しを使っている時、エルマの目は普段の平凡な焦げ茶色から、菫色に変化しているらしい。
ユーグリーク曰く、驚いた時や感動した時など、ひどく心動かされた時にも、目の色は変化しているとのことだったが。
ついでに集中している時の自分は、どうも鼻歌を口ずさんでいるようなのだが、何分無意識なので指摘されると結構恥ずかしい。
(改めて考えると、わたし、加護戻しのことだって……そもそも貴族社会では常識なのだろう、魔法のこともろくにわかっていない。天馬のことも、ユーグリークさまのことも。本当にわからないことだらけなのに、少し食事やお辞儀の作法を身につけたからって、タルコーザ家にいた時の自分から進化したように勘違いしていたのだわ。だからきっと、ベレルバーンさまにも……)
「それで……その、さっきのことだが」
「あっ……少々お待ちください、片付けますね!」
エルマがようやく食べ終えたのを見計らい、ユーグリークは咳払いして切り出してくる。
慌ててランチセットを片付け終え、二人は改めて向かい合った。
「それで、エルマ……これは大事なことだから、ちゃんと確認しておいた方がいいと思う」
「は、はい」
何やら想定より物々しい空気にエルマが疑問を覚えていると、魔性の男がド真面目な顔で言った。
「慰めるって、具体的に何だ?」
「…………。ぐ、具体的、ですか?」
「うん」
非常に、それはもう重大なことのようにユーグリークがのたまうので、エルマとて背筋を伸ばし、真剣に考える。
(えっと、例えば激励の言葉をかけてもらうとか、そういう……ち、違うのかしら? 違う気がしてきた! あれ? 具体的に慰めるって、何なの!? か、考えるのよ、わたし……!)
素直に簡潔な答えをそのまま出せばいいものを、流され気質及び空気読みすぎ気質がなきにしもなエルマは、相手の雰囲気に呑まれていた。
「その、例えば……」
「う、うん」
「ぎゅっ、て……」
「ぎゅっ……だと……?」
「あっ! でも、あまり力が強いと息苦しいので、程々に、と言いますか……」
「そ、そうか。程々にぎゅっ、か」
「えっと……はい……」
「…………。それだけなのか?」
「あの……えっと……そ、そうだと……思います……?」
自分は今何を頼み込んでいるのだろうか。そして彼は一体何を望んでいたのだろうか。
だんだん頭がぼーっとしてきた。いや、銀色の目を覗き込みすぎて、少し前からぼーっとし続けているかもしれない。
「そうか……程々にぎゅっ、だけ……」
「や……優しくお願いします……!」
「優しく。うん優しく。わかった。大丈夫だ。問題ない……」
ユーグリークは挙動不審に手をさまよわせた後、ぎこちなくエルマの肩に置く。
……なんだかエルマまですごく緊張してきた。慰められるだけなのに。いや慰められるって何だろう。もうわけがわからない。
双方共にゴチゴチのまま、身を寄せ合う。
形の上では、ユーグリークはエルマを抱き寄せ、エルマは彼にひしと身を寄せている。
今までだってこういうことはしてきたはずの仲だ。
なのにこの場のぎこちなさというか、お互いに物慣れなさ全開なのは、一体どうしたことなのだろう。
「……これで本当にいいのか? 俺は今、エルマを慰めているのか……?」
「え、ええと……」
ユーグリークが首を傾げていると、遠くでこちらを向いたフォルトラがふんっ! と鼻を鳴らし、また草食みに戻る。
二人はそっと体を離した。この居心地の悪い空気をどうしてくれよう。
「……その。エルマ……な」
空気をごまかすためにエルマが残ったお茶を全部カップに注いでいると、ユーグリークがおずおずと話しかけてきた。
「困っていることがあるなら、なんでも相談してほしい。けど……俺に言えないことも、俺だから言えないことも、もしかすると、あるのかもしれない。本当は何もかも知りたい。エルマをまるごと、俺に預けてほしい。俺に全部委ねて、俺だけのことを考えているぐらいで……いいじゃないか、別に、それで。全部俺のものになればいい」
掠れた低い声は時折とても心臓に悪い。
銀色の目が怪しくちらちらと輝き、エルマは喉を鳴らした。
「……でも、エルマはエルマだ。俺じゃない。俺と違う物を見てるし、聞いているし、考えている。俺はだから……きっと、君のことがいつも恋しくて仕方ない」
「ユーグリークさま……」
「エルマが頑張りたいなら、俺は君の頑張りを応援するべきだと思う。エルマが悩んでいることでも、自分でなんとかしたいなら……俺はそれを奪うべきじゃないって、思ってる。だけど、力にはなりたいし、君が頑張ってもどうしようもできないことなら――そんな場所からは、君を攫っていくよ」
いつの間にかエルマの手にユーグリークの手が重なり、握りしめられている。
苦しくなるほどは強すぎない、けれど力強く、温かい、“ぎゅっ”の感触。
エルマははっと思い出した。
(そうだ……初めて会った時からいつだって……これ以上ないほど、大切にされている。何を恐れることがあっただろう? どうして自信をなくす必要があっただろう?)
――そんな彼の隣で、胸を張っていたいと思った。最初の気持ちを思い出す。
エルマは微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ユーグリークさま……わたし、うまくいかないこともあって、わたしのことを認めてくれない人がいて……この先もそうかもしれない。けれど……」
「うん」
「あなたとずっと、一緒にいたい。あなたの後ろではなく、隣に……だから、もう少しだけ、自分で頑張りたいんです」
「大丈夫だ。エルマなら」
「……でも、どうしても、もう駄目だって、頑張ってもどうにもならない、ってことがあったら……その時は甘えても、いいですか?」
「もちろん。俺は君を甘やかすことに飢えてる。満たしてくれ」
二人はじっと見つめ合う。指を絡ませたままの手をユーグリークが引いた。
エルマの体が引き寄せられ、ユーグリークの胸板に顔が埋められる。
空いている方の手で、彼はエルマの頭を撫で、背中をぽんぽんと叩く。
エルマはくすりと笑い声を上げた。
「こんなに簡単なことなのに、先ほどはなぜ、うまくいかなかったのでしょうね?」
「あれは……エルマが意味深なことを言うから、色々考えてしまっただけだ」
「わたし、そんなに変なことを言いました……?」
「……君は本当に、俺を虜にするのが上手だな」
エルマは不思議に思ってユーグリークを見上げる。
彼は苦笑してから――幸せそうな笑みに表情を変えると、きょとんとしたままの彼女に口づけを落とした。




