1.新年の挨拶1
「まあ、エルフェミア! まだ起きていたの?」
握りしめた物を睨みながら唸っていたところに声をかけられ、エルフェミア――エルマは飛び上がった。
「も、申し訳ございませ――ああっ!」
机の上に置きっぱなしの照明と籠は無事だったが、握りしめていた物が机の下に落ちてしまった。
エルマは拾おうとして机の下に潜り込み、即座に立ち上がろうとする。
ごちん、といい音がした。
「まあ! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫です、申し訳ございません……!」
祖母は目を丸くしてあたふたする孫の様子を見守っていたが、事故が起きた気配を察すると速やかに歩み寄ってきた。
涙目になっているエルマを座らせ、慎重に頭を確認する。
「すみません、わたし……」
「エルフェミア、どうしてそんなに何度も謝るの。あなたを責めているわけではないのよ。ただ、もうとっくに寝ているはずのあなたがリビングにいたから、驚いただけ」
祖母は優しい口調で、けれどきっぱりと言った。エルマがしゅんとすると、目尻に皺を作る。
「でも、わたくしも驚かせてしまったのですもの。おあいこってことにしましょう。たんこぶもできていないようでよかったこと」
次いで老女は暖炉に足を向け、それを見たエルマは慌てて立ち上がろうとする。
「お祖母さま! あの、そんな、大丈夫です。わたしが勝手に起きていただけで、わざわざつけていただくようなことでは――」
「いけません。真冬なのよ? 上着も羽織らずに過ごすだなんて、風邪を引いてしまいますよ」
「へ、平気です。わたし、もっと寒い時だってぴんぴんしてましたから……!」
「なら、暖かくすればもっと安心ね」
遠慮をさらりと受け流し、祖母は手早く暖房をつけた。
エルマは浮かせかけていた腰を椅子に戻し、落ち着かずに揺れる視線を手元に落とす。
エルマの両親はかつて、魔法伯ファントマジットの子息と、その家に仕えるメイドだった。
二人は恋に落ちて家を出たが、病弱な父はエルマが物心ついてまもなく死んでしまった。
魔法伯は息子を早死にさせたも同然の元メイドを許すことができず、孫だけを引き取ると申し出てきた。
エルマの母はそれを拒絶し――程なくして事故死した。馬車からエルマを庇ったのだ。
自分のせいで母を死なせてしまった罪悪感で、エルマはしばらく実の両親の記憶が曖昧だった。
そんな彼女を引き取ったのが、母方の叔父だ。
エルマに自分と娘が父親と妹なのだと刷り込み、その上で家の専属使用人のように扱った。
タルコーザ家では、無能で役立たずのエルマを虐げることが当たり前で、エルマ自身もそれを当然の事実として受け入れていた。
もしあの頃、真夜中に勝手をしている所なんて見つかったら、どんな仕打ちをうけたことか。
けれどこの家、ファントマジット家は違う。
エルマの母を憎んだ先代魔法伯はもうこの世の人ではなく、祖母と伯父は温かく、行方不明だったエルフェミア=ファントマジット――かつてエルマ=タルコーザだった娘を迎え入れた。
誰もエルマを冷遇しないし、失態を犯したとて怒鳴りつけてくることもない。
先代魔法伯夫人は、エルマにも、そしてそれ以外の誰にも、優しい人だ。
しかしそれは、けしてただ甘やかし、好きにさせているということではない。
時に愛情を以て窘める――かつて本当の父や母がそうだったように、大切な気づきを与えてくれるのだった。
「さて、わたくしは喉が渇いたから、何か飲み物でもいただこうと思って起き出してきたのだけど。エルフェミアは?」
「あ、あの……わたし……」
口ごもってしまっても、祖母はただ待っている。――あの人と同じように。
エルマの肩からふっと力が抜けた。もぞもぞと手をすり合わせ、小さく付け足す。
「……本当は、少し寒いかも、しれません」
「よろしい。ホットミルクを入れてあげましょうね」
老婦人が笑いながら一度退出したのを見送って、エルマはため息を吐き出した。
いつの間にかぎゅっと握りしめてしまっていた手袋を広げ、埃を払って皺ができていないことを確認する。
(良かった、汚れてはいないみたい。だけど……)
祖母の件は一旦落ち着いたとして、今最もエルマを悩ませているのがこの毛糸の手袋である。
男性、特に騎士は手袋が消耗品だから、贈れば喜んでもらえること間違いなし。
そんな情報を耳に入れ、それならば! と編み始めた瞬間は良かった。
が、いざ完成品を見て冷静になると、色々と問題点が頭に浮かんでくるようになった。
(まずこの指先が出ているデザイン……屋外だと凍えてしまうし、かといって屋内で手袋は使わないような。おまけに騎士様が普段使いする消耗品の手袋って、もっとこう、革製のぴったりした物なのではないかしら)
手袋、毛糸の手編み、できる! なんて即思考回路の線をつなげ、行動に移した自分の安直さが恨めしい。
(ううっ、どうして今になって……もっと早くに気がついていれば。革手袋は、さすがに自分で作るのは難しかっただろうけど、お店で買ってくることだってできたはずなのに。そもそもユーグリークさまは本当に手袋を必要としているのかしら、割といつも素手だったような――)
「エルフェミア、ほら」
「ひゃうっ!?」
エルマは深い集中に入ってしまうと、周囲のあれこれに気がつけなくなるタイプである。
ぐるぐると手元の贈り物候補をどうしてくれようか案件について悩んでいたら、すっかり祖母のことが頭から抜けていた。
また飛び上がりかけたが、今度は手袋を投げた先が机の上、ちょうど置きっぱなしの籠に向かってだったので、先ほどよりずっと被害が少ない。
早鐘を打つ心臓をなだめながら、苦笑いしている祖母の差し出すカップを受け取った。
「すみません……」
「すみません?」
「…………。ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
老女はウインクしてみせ、優雅に自分のカップを口元に運んだ。
エルマも口をつけたが、慎重に少量だけ舐めるようにいただく。猫舌なのだ。
「温まった?」
「はい。本当にありがとうございます」
「それはよかった。わたくしはもう部屋に戻るけど、あなたはもう少しここにいる?」
「ええと……」
エルマは机上の籠に、窓に、時計に視線を流してから、そわそわと目を泳がせている。
老婦人は目を細め、肩をすくめた。
「部屋に戻るとき、暖炉は消しておいてね。それと外に出るなら、戸締まりには気をつけること」
エルマはきょとんとした顔で祖母を見た。
老女はそしらぬ顔をして続ける。
「朝になって、閉めたはずの扉が開いてましたなんてことになったら、皆にも余計な心配をかけてしまうでしょうし」
「えっと……お祖母さま……?」
「それからそうね、あまりはしゃぎすぎないように。わたくしは老人だから耳が遠いけれど、他の皆は違うもの」
「あっ、あの――それは、その……!」
「若気の至りは若ければこそ。火事にならないように気をつけて楽しんでいらっしゃい」
――これはたぶん、いや間違いなく、エルマがなぜ今晩、リビングに待機していたのかバレている。
エルマの顔はみるみる赤く染まっていき、最終的には湯気が出そうな勢いだった。
落ち着こうと思って急いでカップを傾ける。また飛び上がりそうになった。自分が猫舌なことも、ミルクが熱々なことも忘れていた。
じたばた口元を押さえて悶絶している間に、祖母は「お休みなさい、良い年を」とひらひら手を振って背を向ける。
急いで「おやすみなさい!」と返そうとして、今度はカップをひっくり返しかけるが、寸前で踏みとどまった。
ようやく机上に物を避難させ、なんとか落ち着きを取り戻した時には、とっくに一人きりだ。
立ち尽くすと、ぱちぱちと火が爆ぜる音だけが響く。
ため息を落としたエルマは、座ったまま机に突っ伏した。
一連の騒動で、体が重くなったように感じている。
しかし、もうかなり遅い時間だろうが、さほど眠くはない。
顔の向きを変えると、窓から差し込む月の光が見える。
(そういえば、あの時も十二時を待っていた。あの人は本当に来るのか、来ないのか、って……)
ふふ、と忍び笑いを漏らしたエルマは、瞼を下ろしてじっとする。が、程なくしてバッと体を起こし、耳を澄ませる。
これは気のせいではない、という確信を持った瞬間、椅子を倒しそうな勢いで立ち上がる。
急いで部屋を出ようとして、籠のことを思い出し、大急ぎで取りに戻ってから玄関に向かう。
扉を開けると、寒さが身に染みた。が、すぐにそんなものは気にならなくなる。
夜の月明かりに、純白の馬が照らされていた。
ただの馬ではない。肩の辺りから翼が生えている。
不満そうに前足で地面を掻いているその彼を宥めるように、隣に立っている覆面の人物が首の辺りを愛撫していた。見事な銀色の髪が風にふわりと揺れる。
待ち人の姿を見て、エルマは目を輝かせる。
「ユーグリークさま!」
押し殺した喜びの声を上げると、彼が――婚約者のユーグリーク=ジェルマーヌが、ぱっとこちらを向いた。
「エルマ!」
広げられた腕の中に、エルマは迷わず飛び込んでいった。
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