6.夢と現実
翌朝、寒気でエルマは目覚めた。
雑草をかき分けて見つけた庭のあずまやには、屋根と簡易的な壁があった。
最低限の雨風はここでしのげそうだが、そろそろ夜の寒さが身にこたえる季節だ。
震えながら体を起こすと、見慣れない物が視界に映った。
ハンカチの上に置かれた指輪と、ラティーだ。
(ゆ……夢じゃなかった……!)
昨晩のことはあまりにも現実離れしていて、きっと疲れた自分の作り出した妄想なのだと思った。
ところが朝になっても、恐るべき「落とし物」(とおまけ)は残っている。震える手で触っても、泡と消えるようなこともない。
(どうしてこんな……わたし、すごくまずいことをしたのでは……?)
しかし考えねばならぬのは、常に過去より今、そして未来のことだ。
エルマはうなりながら、まず食べ物を見つめた。
おそらくは魔法で新鮮な状態を保たれているのだろう。
うっかり一晩放置してしまったが、みずみずしさがなくなる様子はない。
虫や動物の被害にもあっていないのは、幸運だったと思うべきか、いっそ持っていってくれたらと思ってしまうところなのか。
(朝ご飯に出せば、お父さまとキャロリンさまは満足してくれるかしら。いえ……そもそもこれ、本物なの?)
飢えを何度か経験している身としては、食べ物を粗末にしたくない。
が、こんな明らかに怪しい物をそのまま出して、例えば妹がお腹を壊すようなことがあったら――激怒した父に、何をされるかわかったものではない。
(ラティーは見たことがあるだけ、味はわからないけど……毒味ぐらいなら)
エルマは注意深く、一番小さな実を手に取り、爪を使って皮をむく。ぷりりとした白い果肉が顔を見せ、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。自然と口の中がうるおってくる。
(……匂いと見た目は問題なさそう)
ごくっと唾を飲み込み、思い切って口に入れる。舌が未知に触れた瞬間、驚きで目を丸くした。
(甘い! それと、少し酸っぱい? なんだか癖があって、独特な風味……なんて不思議な食感!)
めったに味わうことのできない甘味に、エルマは両頬を押さえ、目を閉じて幸せを噛みしめた。
大切に、なるべく時間をかけて楽しませていただいてから、ほっと息を吐き出す。
(少なくとも、吐いてしまうような味でもないし、お腹が痛くなるようなこともないみたい。よかった、これならきっと、キャロリンさまも食べてくれるし、お父さまも喜んでくれるかも……)
食べ物問題はこれで片付きそうとして、残るは指輪だ。
薄暗い朝日の下でも、やっぱり虹色に光り輝いている。
エルマのような何の取り柄もない娘には、まったくもってそぐわない。
(落とし物……探す……そう、確かそう言っていたの。あの人は本当にもう一度ここに来るのかしら? でも、こんな綺麗な指輪、その辺りにも置いておけないし、お父さまやキャロリンさまにも見つかると問題になりそうな……)
ため息を吐いたエルマは、いったん落とし物とラティーを手に、自分の部屋に戻ることにした。
この屋敷では、階段下の狭い物置がエルマの私室だ。
足音を忍ばせ、二人を起こさないように気をつけて、裏口から入っていく。
エルマが勝手に光をつけることは許されないから、目を細め、手探りで調べた。
(確かこの辺に……あった!)
探し物は毛糸だ。それで簡易的なネックレスを作り、指輪に通して首にさげる。
(よかった。服を着ていればわからないわ。こうやって身につけておこう)
ついでに体を拭いて着替えを済ませ、身なりを整えた。
(ちょうどいい時間みたい)
果たして、甲高い呼び鈴のベルが鳴り響く。父の部屋からだ。今日も忙しい一日が始まる。
エルマは大きく深呼吸してから、階上に向かった。
「ところでできそこない。なぜ家の中にいる? 昨晩はラティーを見つけるまで帰ってこなくていいと言ったはずだが、お前の頭ではそんなことも覚えていられないのか?」
朝の支度を済ませた父は、食卓が整えられると、思い出したようにエルマをいびりはじめた。
しかし今日は、うなだれるだけの彼女ではない。
そっと無言でラティーを出した瞬間、勝ち誇ったような父が目をむき、妹がはしゃいで食器を鳴らす。
「まあ、姉さま。ラティーじゃないの! 姉さまみたいな生まれてきた意味がない人にも、たまには役に立つ時があるのね!」
思わずエルマはほっとした。ひとまずキャロリンが上機嫌であれば、今日のご飯ぐらいは食べられる期待が持てる。
けれど無理難題を解決されたのが面白くなかったのだろうか。父はぎろりとエルマをにらむ。
「お前。これをどうやって見つけてきた?」
「あの……たまたま、困っている人にお会いして。お手伝いをしたら、ご褒美にくださったのです」
「あんな夜遅くに?」
「はい……」
昨夜のことを正直に話しても、まず信じてはもらえないだろう。エルマ本人だって、物的証拠がなければ夢だと確信するような出来事だったのだ。だが父と妹に、嘘がつけるはずもない。
追及されたらありのまま一部始終を話すしかないが、それで納得してもらえるか……と冷や汗を浮かべていると、ふんと父は鼻を鳴らした。
「なるほど。卑しい雌犬めが、誘惑して戦利品を得てきたというわけだな。お前のようなやせぎすの不細工でも、相手にする好き者もいるものよ」
エルマはきょとんと瞬きした。最初、何を言われているのかわからなかった。
体を売ってきたのだろう――そう言われているのだとようやく理解した途端、大きく目を見開き、次いで伏せる。
まつげが震え、視界がゆがんだ。
(ばかね、わたし……もらいもので、少しでも見直してくれるかもなんて思うから……)
傷ついたエルマの表情を見て、父はようやく機嫌を直したようだった。
「ああ、美味しかった! でも姉さま、あたしこれだけじゃ全然足りないわ。もっといっぱいラティーをちょうだい! ね、昨日だって見つけられたのなら、簡単なことでしょう?」
エルマは妹の言葉に、え、と間抜けに口を開いた。
すると父が勢いよく両手を叩き、笑い声を上げる。
「妙案だ! できそこないには屋敷を片付けが終わってから、また買い物に行ってもらおう。夕方までにラティーを買ってこられなければ、お前の晩飯は抜きだ。いいな?」
結局、何をしても変わらない。彼らはエルマに無能であることを期待する。
それでもエルマはいつも通り、「はい」と従順に答えた。
(だって、わたしに残された、たった二人の家族なんだから……)
大分日も傾いた頃、とぼとぼとエルマは市場を歩いていた。
屋敷中の掃除を任された彼女は、一日では全ては終わらせることはできず、おかげで昼ご飯は抜かれてしまった。
朝ご飯も結局、あのラティーぐらいしかまともなものを食べていない。
この状態で食べ物を買いに行くのは辛かったが、父と妹の目がない場所は、ほっとした気分にもなるのだった。
店先に並べられた果物を見つめ、深いため息を吐く。
「ブルードゥはきっと、買うだけ損ね……」
「何が損なんだ?」
どこかで聞いた、かすれて耳に引っかかるような声だった。
エルマは何気なくちらっと背後に目をよこして、ブルードゥに戻し、そして勢いよく再度振り返った。
(そ……そんなばかな……!)
ものすごく見覚えのある覆面姿が、どういうわけかそこに立っている。
くら、とエルマの視界が歪んだ。