過去編 凍てつく心閉ざして7
ティリスはやんちゃで、少々強引な所はあるが、けしてユーグリークに無理を強いるような人間ではなかった。
公爵家長男が顔を隠さなければいけない事情だって知っていて、その上で今までずっと気の置けない友人として付き合い続けてくれた。
今だって、彼が嫌なら提案は忘れてくれ、という前置きを元に話している。
選択はユーグリーク本人に委ねられていた。
ごくり、と少年は喉を鳴らす。
(莫大な魔力を与えられる代わりに、その魔力が他人を惑わす――傾国の相とは、そうしたもの。この顔は、他人の抑えていた……例えば欲望を、不必要に刺激してしまう……)
彼は考える。自分はなぜ顔を見せてはいけないのか、今一度老師の言葉を思い出す。
――元々抑制の弱かった人間――。
(そうだ。前は……あの人は、初めて会った時からなんだか少し嫌な、苦手な感じがした。きっともともと……我慢とか、できない人だったんだ。それに、屋敷の使用人ではあったけど、あの日までほとんど会話することもなかった)
ティリスなら――ユーグリークは考える。
ティリスなら、初対面の時から好印象だった。
自分よりしっかりしているぐらいだし、自制心も強い。
今まで過ごしてきた時間、積み上げてきた信頼関係がある。
納得したつもりではあった。
布を被る程度で平和が保たれるなら安いものだと思っている、その気持ちも嘘ではない。
だが、やはり――両親以外の誰にも気を許せないというのは、息苦しくもある。
――あるいは、ティリスであれば。
別に、無貌の魔女のごとく、不特定多数の人間を困らせたいというわけではない。
――深呼吸をできる場所。一人だけでもいい。息を詰めて、顔色を窺わずに済む。そういう他人がほしかった。ただそれだけ。ささやかな願望。
「……俺の顔を見た人は、その……自重が薄れる。知っているね?」
「ええ。聞いているわ」
「すごく、嫌な思いをするかも」
「んー……変な事しそうになったら、遠慮なくやっちゃって。ほら、あたし頑丈だから」
彼女は歯を見せた。いつもの明るい笑い方。
ユーグリークは安堵するように笑みを零し――そして布に手をかけた。
少年の真白い指で、外界を隔てる帳が取り払われる。
伏せられた銀色の目が迷うように揺れてから、少女をひたと見据えた。
ちょうど日差しが彼女の後ろに回っていて、顔が見えない。
風が髪を揺らした。言葉は未だない。
「……ティリス?」
ユーグリークは眩しさに目を細めた。彼女の顔は見えないが、彼女は彼がよく見えているはずだ。
囁くように呼びかけた――その、瞬間。
(――え)
獣の咆吼だった。それがごく近くから聞こえ、少年は無防備にきょとんと目を見張った。
近くで遊んでいた馬たちが怯えて逃げていく。
草原に頭を打って、のしかかられたことに気がつく。
ようやく彼女の顔が見えた。
目は血走り、歯をむき出すかのように口を広げ、肩を怒らせている。
明らかに正気ではない。獰猛な犬のようだった。
(――――。――――)
言葉が浮かばない。何が起きているのかわからない。
いや、わかっている。間違えたのだ。自分は過ちを犯した。だけどそれを理解したくない。
自失している間に、ティリスの涎がぽたりと落ちた。
再び、目が合ったように感じて――次の瞬間、肩に衝撃を感じた。
「――い、痛い! ティリス、痛い、いやだ!!」
噛みつかれて引き剥がそうとするが、全くうまくいかない。
ふざけて取っ組み合いのようなことを前にしたが、あの時彼女はちっとも本気なんか出していなかったのだ。布が外れないように気をつかってくれていた部分もあったのかもしれない。
だが、大人達よりずっと華奢な手に、ああこれなら大丈夫だと、確かに安堵した。
そしてそれは、侮りにも通じていた――ユーグリークは自らの浅慮を思い知った。
「ティリス……ティリス。わからないの? 俺だよ。わからないの……」
彼女は顔を上げてくれなければ、体を離してくれることもない。
ここにもう、ユーグリークの知っているティリスはいない。
これが彼女の隠していた本性だとでも言うのか? また裏切られたのか?
――違う。
彼女の信頼を裏切ったのはユーグリークだ。
ティリスは嫌なら応じなくていいと言った。
大丈夫だと思い込んだのは自分だ。
(何が大人びているだ。何が聡明だ。俺は。俺は……っ)
左肩は異常を訴え続けている。骨がミシリと音を立てた。
歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた。
(落ち着け――後始末をつけろ。これ以上友を汚すな、ユーグリーク!)
再び開かれた銀色の双眸に強い意志が宿る。
氷がパキパキと少女の体を包んでいき、彼女は驚いてのけぞり、声を上げた。
一瞬の隙を見逃さず、ユーグリークは転がってティリスの下から這い出る。
逃げた獲物に飛びかかってこようとする彼女と自分の間に、大きな氷の壁を作り出した。
ティリスは壁に激突し、ひっくり返る。
(…………!)
氷越しに見つめていると、よろよろ立ち上がった彼女は壁にペタペタ手を突き、うなっている。
だが、それだけだ。突破できないとわかったのだろう。
ぶわっと汗が額ににじみ出た。ユーグリークはへなへなと崩れ落ちる。
まだきちんとした魔法の扱いを習う年ではないが、使い方ならいくらか知っていた。
自分は氷の扱いが得意だ。
前の男は、作り出した槍で手を貫くことで逃げ道を作った。
しかしティリスにそんな無体はできない。
せいぜい今のように、脅かしてあちらに退かせ、その間に壁を作り上げる程度だ。
「ごめん……ごめんなさい。ごめんなさい……」
ぺたぺたと、ティリスが――ティリスだったのに、ユーグリークがそうではないものにしてしまったものが氷に掌をつける音が響いている。
少年の謝罪の声は、彼以外の誰にも届くことはなく、ただ風の中に吸い込まれていった。
「……ユーグリーク様?」
西日の中、少女は重たい頭を抱えて体を起こした。
びく、と側の少年が体を震えさせる。
被った布をぎゅっとつかんだまま震えている彼に、少女はいぶかしげな目を向けた。
「あの……どうかした? ああ……もしかして、呼びに来てくれたのかな。あたし、寝ちゃってた?」
少年はどうやら、薄布越しに少女を凝視した。
何か言おうとして口を開いたかもしれない。
けれど大きく深呼吸してから、少しだけ震えの残る声で言った。
「そう……実は、もう声はかけたんだ。そうしたらティリス、木から飛び降りてきたんだけど、寝ぼけていたみたいで」
「あっちゃー。あたしとしたことが、起き抜けにかっこつけようとして変な転び方したんだね! それで頭を打っちゃったのかあ。道理で頭は重たいし、うえ……口の中、鉄の味。変な切り方したのかなあ、ぺっぺ」
「…………。ごめんね、ティリス」
「気にしないで。よくあることでしょ? まあここまでドジ踏むのは久しぶりかもだけど――」
再び少年はぱっと口を開けた。
今度は少し震えの残る声で尋ねる。
「ティリス。俺に何を言ったか、覚えてる?」
「……えっ? ごめん、あたし、何か話した? それとも寝言?」
少女はいつも通りくりくりとした人なつっこい目を瞬かせ、照れくさそうに頭を掻いて結んだ。
「だってほら、あたしったら、もー……ユーグリーク様が呼びに来てくれるまで、一人で昼寝してただなんて」
実際に覚えていないのか。
それとも彼女は見た目よりずっと配慮深い人物だったから、気を利かせたのか。
真相は本質ではない。
ただ、今日は何も起きなかった。そしてこれから同じ事を起こさせないことが重要なのである。
(俺は魔性。相手の意思は関係なく、人を狂わせる。……もう二度と、誰かを近づけたりするもんか。傷つけてしまうだけならば)
――少年ユーグリークはこうして、心を凍てつかせ、閉ざした。