過去編 凍てつく心閉ざして4
その日からユーグリークの視界は薄布に隔てられるようになった。
多少不便ではあったが、布自体は慣れてしまえばどうということはない。
ユーグリークの心を痛めさせたのは、もっぱら周囲の反応だった。特に両親だ。
彼らは息子の前では、以前までと変わらず明るく振る舞っていた。だがやはりどこか空元気のようだ。
たまたま夜中に目が冴えて廊下を歩いている時、ユーグリークは押し殺すような大人の泣き声を聞いた。
「私が……私があの時、あんな馬鹿なことをしなければ――」
「そんなに自分を責めないで。子どもがほしかったのは君だけじゃない。私だって……」
「でも、でも! それこそわらにもすがる思いで、あらゆることを試しました。中には怪しげなまじないの類いもあった。契約は対価がなければ成立しないのに、そんなことも忘れて……」
「仮にもし……もし本当に、誰かが私たちの願いを聞き届けたのだとして。あんなにいい子がうちに来てくれたんだ。それでいいじゃないか」
「いい子だから、だから辛いのではありませんか! 私があの子から可能性を取り上げたのでは――」
「もう休もう。な? 近頃ずっと寝ていないから、嫌なことばかり考えてしまうんだよ。私たちが寝不足で顔色を悪くしていれば、ユーグリークだって楽しく過ごせないだろう?」
「そう……そうね、あなた……」
音を立てぬようにその場を離れ、ベッドに舞い戻った。
翌朝、初めて邪魔な薄布に感謝した。
酷い顔色を二人に見られずに済んだのだから。
ユーグリークは前以上に聞き分けよく行動した。
勉強の成績は常に教師の期待以上で、反抗期の気配さえ見せない。
なのになぜか、ジェルマーヌ公爵家の皆で薄氷の上でも歩いているかのような雰囲気だった。
一日の疲れを湯船で癒やす時、体がとても重くなっているような気がする。
ぼんやりさまよわせていた視線が、ふと鏡に止まる。
右目の下にぽつんとあるほくろ。これが何やら異形の証らしい。
触れてみれば少しだけ膨らんでいて、けれど何の変哲もない。
ふやけた肌は柔らかい。ちょうど伸びてきていた爪をずぶりと沈ませると、鈍い痛みを感じた。
(これを、取ってしまったら)
このまま指を滑らせて、肉を抉り取って、切り離してしまえたなら。
傾国の相とやらはなくなって、父も母も泣かずに済むようになるのだろうか。
(でも、そうしたら俺は死ぬかもしれないのだっけ……)
死ぬのが怖くないかと言われれば嘘になる。
けれどそれより、死んだらやっぱり両親がこの世の終わりがごとく嘆くだろう、という想像の方が手を止めさせた。
ジェルマーヌ公爵家唯一の男児がいなくなれば、嫁いだ姉にも迷惑がかかる。
ため息を吐いて、彼は顔から手を離した。
心臓が血液を送り出すたびに、じわりと痛みが頬に走る。
痒くて引っ掻いて傷を作ったとでも言い訳しよう、ああ今は布があるから見せずに済むのか――なんてことを考えながら部屋に戻り、寝る前にまた触れて、その手が止まった。
ユーグリークの肌は何もしていなくとも磨き抜かれた陶磁器のように滑らかで美しい。
染みも傷もついていない。
(かさぶたすら、ない。さっき確かに、傷をつけたのに)
水場の傷は塞がりにくい。痛みを感じた。赤くぽたっとしたたる血液を見た。
それなのに思い返してみればなぜ、自分は脱衣所でいつも通りに顔を拭えたのだろう。
(そういえば前も、転んで、頭から地面に突っ込んだのに、鼻血が引っ込んだら擦り傷一つなくて、)
――運が良かったわ。男の子とは言え、顔に大きな傷がついたら嫌だものね。
――せっかく綺麗なんだもの。大事にしなくちゃ。
姉や母が散々心配してから、そんなことを言っていたのを覚えている。
(あの時、も……)
あの時――祭りの日、男に手を引かれて。
――坊ちゃん、良いところがあるんですよ。
正直前々からどうも好きになれない相手だった。
お調子者なのはいい。時々女の子や――自分に向ける目が、なんだか嫌な感じがして。
でも、いつも美味しい料理を作ってくれる女性の親戚という話だったし、階下の人気者だ。
我慢してついていくと、人のいない小屋に連れて行かれた。
後ろ手に扉を閉めた瞬間から何かおかしいと察しはしたけど、シャツを破られて本格的に異常事態を悟った。
――やめて、何をするの。
そう声を上げようとして、頬を張られた。耳鳴りがして、頭がクラクラするほどに。
――るせえ! ガキは大人の言うことを聞いてりゃいいんだ、いつも通りにな!
大声も、乱れた呼吸も、覆い被さってくる影も。
何もかもおぞましく、恐ろしかった。
声は出せないまま、嫌だ、と強く念じた。
特にその、伸びてくる手が。
(ちがう。今思い出したいのは、そこじゃない。その後。俺は必死に小屋を出て、近くの騎士を見つけて、それで……)
――良かった。怪我はないんだね。
ほっとした様子で、大人達が口々に言った。
あんなに強く殴られた後だったのに、傷はない、と確かに言った。
掛け布団をはね除けたユーグリークは、震える手でカーテンを引き、月明かりの中ちょうど出しっぱなしにしていたペーパーナイフを探り当てる。
荒々しく部屋を横切って姿見の前までやってくれば、荒く肩を上下させる自分の姿が映っていた。
切っ先を頬に当て、大きく息を吸ってから、ぐっと押しつける。
「ぐ……うっ……!」
噛みしめた唇からごくわずかに苦悶の声が漏れた。
頬を生ぬるく伝う感触がある。
唇も、今歯でちょっと傷つけたかもしれない。
だがユーグリークはじっと、鏡の中を見つめ続けた。瞬きすら忘れて見つめ続け、やがてそっとざっくり裂けたはずの線をなぞる。
そこにはやはり、傷も染みもない滑らかな肌が広がっていた。
拭えば血糊が広がった。これはユーグリークのものだ。ペーパーナイフの切っ先も、赤黒く変色している。だからきっと、確かに切った、切れたのだと思う。
でももう、顔のどこにも痕はない。唇も滑らかでうるおっている。なのに舌の上には鉄の味がこびりついている。
血の気が引いていく音を耳奥に聞いた。
後ずさり、自分の立てた物音に驚いて周囲を見回した。
暗闇から誰かが自分を見ているような気がしてならなかった。
――独りになるでないぞ、坊や。
ふと老人の言葉が脳裏に蘇る。すると体の熱を思い出した。同時に夜の寒さを感じる。
凍えた体を震わせ、急いでベッドに舞い戻った。
(きっと、このままでは駄目だ。でも……)
漠然とした不安だけがあって、解決の光が見えない。
ぎゅっと目を閉じても、その晩はついに眠りにつくことはできなかった。