過去編 凍てつく心閉ざして2
最初に決定的な事件が起きたのは、姉が嫁に出た直後――ユーグリークが六歳の時の事だった。
ジェルマーヌ公爵家はその日、祭りに出かけた。
領民の様子を見ることも目的のこの外出は、いつもと違って大分ラフで、使用人すら着飾って主人と共に歩くことが許されていた。
公爵夫妻はれっきとした由緒正しい貴族ではあるが、だからこそ統制と支配を混同しなかった。
威厳と品を備えた別世界の人間でありつつ、けれどけして人の心を忘れることがない。
王城とを行き来する忙しい生活の中で、領地のことを忘れず、定期的に現場に足を運んではよく働く人々を労う――そんな領主を、領民達は慕っていた。
出店をのぞきながら楽しく歩いているうち、ふと何気なく振り返ると、銀色の髪がどこにも見当たらない。
ほんの一瞬、目を離した隙の出来事。
見回しても雑多な人混み、名前を呼んでも返事がない。
大人を困らせない子どもだったのに、こんなに供もいる中で――後で悔いても迷子はすぐに見つからない。
迷子ならまだいい。
誘拐――不穏な二文字がこびりついて離れなくなる。
蒼白になって互いの顔を見合わせる一行は、そのうちにもう一人、その場にいるはずの人間がいないことに気がついた。
最近――つい数ヶ月前に雇われた下男だ。
料理番の親戚とやらで、彼女の紹介を経てやってきた。
ハンサムなお調子者で、メイド達に声をかけて回るなどやや軽薄なところが見られるが、社交的な明るい人物であった。
探しに行ったのか、あるいは彼のことだから、坊ちゃまの一大事にも気がつかずに一人祭りを堪能しているのか。
――あるいは、彼がユーグリークの手を引いて。
いや、いくら新参者で軽い性質をしているからと、決めつけるのはよくない。
しかしこんなときに姿を消さずとも――そんないらだちを募らせつつ捜索していると、騎士の一人が無事保護をした、と連絡をしてきた。
駆けつけた両親は息子の様子を見て、ほっとするより先に息をのむ。
よそ行きだからと特に念入りに整えられたはずの髪は乱れ、震える手が押さえるシャツは破れている。
おまけに血の飛沫のようなものが見られた。
幸いにも外傷はなかった。飛び散った血は本人のものではない。
だが尋常でない目に遭った事は一目瞭然だ。
いつも以上にぎらぎらと強く輝く銀色に、おそらく身を守るために魔法を使ったのだろうということも、関係者にはすぐわかった。
けれど呆然と震える幼子を、誰がそれ以上問い詰めることができよう。
母親はぎゅっと息子を抱きしめ、自らの怠慢を深く恥じて嗚咽した。
ユーグリークはどこか困ったような表情で彼女をなだめようとするので、ますます嘆きは深くなるのであった。
一方、夫の方は一度息子のもとを離れ、もう一人の当事者と対峙していた。
二人目の行方不明者も、発見時の様子は酷いものだった。
髪や衣服に乱れや汚れがみられるが、最も酷いのは穴の空いた手だった。
これもまた、魔法に素養のあるものならすぐわかる。
男の手からは、ユーグリークの魔法の気配がした。
公爵は膝を突き、普段とは打って変わった冷ややかな目を下男に向けた。
「……何があったのか申してみよ」
下男は乾いた笑いを零した。
横で睨みを利かせている騎士に小突かれると、下卑た笑みを深める。
「何……何? そんなの――わかっていらっしゃるでしょう? 坊ちゃまがいけない。あんな可愛い顔で、熱い目で見られたら……あいつがその気にさせたんじゃねえか。俺は悪くねえよ。だってあいつが綺麗だから。誘ってるのと同じだろ? あんな風に笑ってさ――」
直後下男の体は浮き上がり、壁まで飛んでいった。
慌てて騎士達が動き、なおも追撃を重ねようとする公爵を止める。
「ふざけるな! 優れた容貌がいけないと、笑ったのが悪いと、たった六歳の子ども相手に――私の息子をどこまで侮辱するつもりだ!」
「閣下、いけません! お静まりください、閣下!」
下男は即日解雇された。もし未遂で済んでいなかったら、公爵は男の首をはねていたことだろう。
当然、推薦状なんか出ない。むしろ悪評は瞬く間に広まる。
次代公爵への狼藉。
年端もいかぬ子どもへの暴行未遂。
魔が差したで許されることではなかった。
結局どこにも受け入れられず物乞いとなり、まもなくひっそり息を引き取った――そんな話が、数年後ふっと舞い込んですぐに消えた。
元々若者にありがちな傲慢さを持ち、軽薄でお調子者な辺りは困りものだが、けして性根は悪人ではなかった。
だから公爵邸で品性を磨き、経験を積んで良い人生を歩んでほしい――そんな料理番の願いも空しく泡と消えた。
彼女もまた、事件当日に自ら辞職を申し出た。
紹介状の用意も断り、止める間もなく家を出て、その後の行方は杳として知れない。
この誘拐未遂事件を受け、両親は息子をある人物に引き合わせることを決意した。
老師、と呼ばれる宮廷魔道士の一人である。
本名も、いつから城にいるのかも謎。噂の一つでは御年数百年。
そんな浮世離れした老人は、連れてこられた幼子の顔を見た瞬間、ほう、と感嘆するような息を漏らした。
「これは異な事――この時代にまだ、傾国の相を有するものが残っていたとはの」