5.約束と落とし物
特に縫い目の辺りを念入りに調べてから、ようやく男は頭から布を被った。
時間をかけてできばえを見られるのは、心臓に悪い。
そして顔が見えなくなると表情もわからなくなり、これはこれで緊張する。
「……切れた部分を、なるべく目立たないようにしたのですが」
「うん。近くで見ればさすがにわかるが、遠目には全く問題ないと思う」
ひとまず及第点には到達できたようだ。
エルマはほーっと胸をなで下ろす。
「すっかり礼を言うのが遅れた。本当にありがとう。助かった」
「…………。!?」
男が右手を差し出してきて、エルマは最初きょとんとした。
次に、かけられた言葉を頭が理解すると、衝撃のあまり顔をひっぱたかれたようによろめく。
「……大丈夫か?」
「な、なんでもないです、おかまいなく……!」
急にふらついたことを心配されて、ますます顔が熱くなる。
(いやだ、どうしよう……うれしい。こんなの、だめなのに……どきどきして、止まらない。どうしよう……)
エルマを支配したのは感動だ。じわっと胸の奥から溢れて、体中を温かく包み込む。
冷えた指先で押さえてみても、すぐには収まってくれそうにない。
「それで、こういう時はいくら出せばいいのだろう? 相場に疎くてな。教えてほしい」
「……相場?」
ぺちぺち掌で頬を叩いていたエルマが目を点にすると、相手も首をひねっている。
「無料というわけにはいかないだろう。こんなに早くて正確な加護戻しは、私も初めて見た。さぞかし名のある職人と――」
「ち、違います……! わたしはそんな、ただの雑用係で……」
「――。そんな馬鹿な。加護戻しは誰にでもできるものではない」
「買いかぶりでしょう……ただ、手先が少し器用なだけです……」
その気になれば竜巻すら起こせる妹キャロリン。
掌から電撃を放つことのできる父ゼーデン。
二人に比べて、エルマには何もない。だからこそ、手足を必死に動かすしかないのだ。
エルマはそう理解しているのに、どうも男は釈然としない様子だった。
「それに、あの……わたしは、ただ……あの、お願いを……」
「……ああ! そうか、そんな話をしていたんだった。しまったな、余計な事を言うんじゃなかった」
元々エルマが布を直すと申し出たのは、男に今日のことを忘れて帰ってもらうためである。
今の所、タルコーザ家のできそこないとは思えないほど順調な経過をたどってきた。
が、やはり所詮エルマはエルマでしかないのだろうか。恐る恐る約束の存在を思い出してもらったところ、男はうなり声を上げて考え込んでしまった。
ここに来てまた不穏になった空気の中、エルマは「せめてとがめられるなら、父と妹に迷惑をかけることなく、自分だけに……」と両手を握りしめる
と、布越しではあるが、彼がこちらを見た。息を呑んで飛び上がると、大きなため息を吐かれてしまう。
「そう心細い顔をしないでほしい。私とて一応騎士のはしくれ、約束は守る。私は先ほど、確かに言った、君がこれを直してくれたら、お願いを聞くと。だが……困ったな。これはとても困った。こんな完璧に仕上げられたら、もう大人しく帰るしかない。が……」
(布が直ったら、これ以上ここに用はないように思えるのだけど……?)
一体彼は何を悩んでいるのだろう。エルマは見当がつかず、途方に暮れる。
と、何かひらめいたらしい男が、「思いついたぞ」とぽんと手を打つ。
「こうしよう。私は君の願い通り、今日は大人しく帰る。が、うっかりここに落とし物をしてしまうんだ。見当たらないあれはどこにいっただろう、と探し回った結果、偶然またここにやってきてしまい、君と再会する。うん、これならお願いを破っていないし、私の望みも叶えられる。完璧だな」
「……………………」
エルマの思考が停止した。彼が今何を言ったのか理解できなかった。というか、常識と理屈が理解を拒絶したような気がした。
彼女が固まっている間に、男はごそごそ懐をまさぐった後、エルマの手に何か握らせてくる。
手の造形すら度肝を抜かれそうになる美しさだが、やはり男性なのだ、エルマの小さな手はすっぽり包まれてしまう。
「今日は本当にありがとう。そして、できれば――いや絶対にまた会おう。では」
驚きすぎて、というか展開についていけなくて、声すら出てこない。
持たされた物を見て更にぎょっとした。指輪だ。派手な装飾ではないが、月の光に照らされるときらきらと七色に輝きを放ち、見たことのない宝石か――下手をすると魔石で作られているのではないかと思われる。
つまりどう控えめに見積もっても貴重品だ。
それがなぜか、今エルマの手の中にある。ちゃっかりしっかり持たされた。
(落とし物……落としてない。指輪……また会おう。今何が起きたの? 何が起こっているの??)
エルマが多くの疑問に脳内の思考回路を汚染され、棒立ちになっている間に、覆面の男は背を向け――たかと思ったら、戻ってきてまた何かを取り出した。
「ああ、あと、これも。もらい物だが、私より君の方が必要そうだ。女性はすぐ痩せたがるが、度の過ぎた減量法はよくないと思うぞ?」
ぽん、と指輪を持っているのと逆の手に握らせられたのは、果皮が赤くつぶつぶした果物だった。
一つだけではなく、ぽんぽんぽんぽん――と五つほど、無造作に落とされるのを慌てて受け取る。
ラティー、と視界に入ったそれの名前を、エルマの知識が思い出させる。
今の時期はもう出回っておらず、仮に売られていたとしても到底手が出せない高級品。
今日、妹が「どうしても食べたい!」と暴れ、父に「見つかるまで戻ってくるな!」と追い出されることになった原因。
(なんで、わたしのてに、らてぃー、が)
エルマは今度こそ放心した。
いや、腰が抜けなかっただけでも賞賛に値するように思う。
そして彼女が呆けている間に、覆面の姿はどこにも見えなくなってしまっていた。
くしゃみをしかけ、体が冷え切っていることに気がついて、エルマは今日の寝床を探さねばならなかったことを思い出す。
(――きっと夢。こんな荒唐無稽なできごと、夢に決まっている。寒くて、お腹が空いているから、幻覚を見てしまったのね。わたし、わかるわ。朝になったら、この指輪も、ラティーも消えてなくなるの。今日はもう寝よう……)
疲れていることは紛れもない事実だった。
エルマはふらふらとぼとぼと庭のあずまやまでたどりつき、倒れるように眠りについた。