43.本当の家族
タルコーザ親子に対し、エルマが心の整理をつけてから数日後のことだった。
ユーグリークは相変わらず屋敷に戻ってこない。
いてもエルマの前に姿を現わさず、せわしげにされているとエルマも声がかけられない。
タイミングからして、おそらくキャロリンがエルマを連れ出した日――あの時、何かがあったのだろう。
いや、彼の目の届かないところで危険な目に遭ったエルマに愛想が尽きたのかもしれない。
だとしても、話をしたかった。誤解ならばそう言ってほしい。何もなければ、エルマの心は勝手に期待する方に向かってしまうのだ。
けれど、近寄らないでほしい雰囲気を出されると、口から言葉が出てこない。
(ユーグリークさまは、普通の人には冷淡だと言われていた……こんな風だったのかしら)
窓の外には曇天が広がっている。
しとしとと降り注ぐ雨が、地面を濡らし、染めていた。
転機が訪れたのはその翌日。
打って変わって雲一つない空の下、エルマは慌ただしく朝から準備をしていた。
「ニーサさん、お客様が来るのですか?」
「ええ。坊ちゃまが、大事な方がいらっしゃるから、今日はきちんとした支度をするように、と」
「……ユーグリークさまもいらっしゃる?」
「みたいですよ。まったく、今日という今日はうまくつかまえてやりませんとね!」
ぎゅ、とコルセットの紐を締めてニーサは鼻息荒く言った。
日の出ている間からこんなに着飾るだなんて、一体誰が来るのだろう?
ヴァーリスが押しかけてきたときだってもう少し軽い装いだったのに。
まあ、彼は目が見えないし、本当に何の前触れもなくやってきたから、本格的な着替えをする時間がなかったのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「いかがでございましょう?」
「ありがとう。とてもいいと思うわ」
鏡の中を見て、エルマは微笑んだ。
髪は半分ほど上げて、垂らす部分はふんわりと巻かれている。
全体的に薄く施された化粧のうち、唇に乗せたリップはお気に入りの桃色だ。
ドレスは珍しい紫色で、袖や胸元に華奢なレースがあしらわれている。
少し前まで、自分がこのように着飾る日が来るなんて、思いもしなかった。
「坊ちゃまもこれなら一言二言言わずにいられませんとも! ええ!」
気合い充分の侍女に送り出され、エルマは覆面姿のエスコートを待った。
やってきた彼もまた、いつになくきちんとしていた。
記憶が正しければ、ゼーデンとキャロリンにエルマをこの家に迎える旨を告げるときと同じ服装だ。
彼がはっと息を呑んだ。
エルマははにかんで頬を染めるが、反応に満足もしていた。
ニーサだけではない。今日は他にも手伝いを呼んで、大人数でああでもないこうでもないと悩んでの仕上げだったのだ。
驚いてほしい。そしてできれば満足して……褒めてほしい。
「君は本当に、綺麗だ」
望む言葉が得られたはずだった。けれど何故だろう、彼の言い方に違和感を覚える。
(どうして、寂しそうに言うのですか……?)
「行こう、エルマ」
彼が手を差し伸べる。相変わらず優しい。触れられるほどの距離なのに、なぜだろう、とても遠くに感じた。
客間には見慣れぬ男女が来ていた。
上品な雰囲気の中年の男と、真っ白な頭の老婦人だ。
エルマが部屋に入ってくると、二人ともはっと息を呑んで立ち上がった。
「ジェルマーヌ閣下。この子が……?」
男がユーグリークに尋ねる一方、老婦人は口元にハンカチを当てたままエルマを凝視している。
「エルマ。ファントマジット魔法伯と、その母上だ。挨拶をして」
「……初めまして。エルマと申します」
ユーグリークに促されたエルマは、場の奇妙な緊張感に呑まれそうになるのを堪え、今まで習ってきたことを思い出して優雅な礼を披露した。タルコーザが偽りの名前だったから、今のエルマはただのエルマだ。
すると途端に老婦人が、ハンカチで覆われた口元から嗚咽するような声を漏らすではないか。
隣の男性が苦笑し、肩に手を置く。
「母さん、まだ早いよ」
「ええ、でも、今度こそ……」
「そうやって何度も期待を裏切られてきた。もう少し……ね?」
「あの……?」
なんとなく自分に発端がありそうなのだが、エルマにはそんな、顔を見ただけで泣き出されるような心当たりがない。見知らぬ人達なのだ。
いや、何か聞いた覚えのある言葉があった気がするが……急に泣き出されて注意が逸れたから、わからなくなってしまったらしい。
困ったエルマがユーグリークの方を向くと、彼は近くの席にエルマを座らせた。
そこには小さな小箱が置いてあり、開けるとオルゴールらしいことがわかる。
「エルマ。そのオルゴールは、構造上はきちんと整えられているにもかかわらず、音が鳴らない。……君に直してもらうことはできそうか?」
優しく言われた彼女は、ふと既視感を覚えた。
あの時は無理だと答えたが、今は自然と手が小箱に伸びる。
既にやり方は知っている。
客人達のことは未だ少々気にかかるが、おそらくあれを彼らの前でやってみせてほしいというのがユーグリークの頼みなのだろう。
彼に頼まれたなら、それ以上躊躇する理由はない。
箱をなぞれば、内部の様子が浮かんでくるようだった。
(心臓部分が空っぽだわ。この子が動けない理由はここ……)
作り物の構造はわからないが、魔力が欠けている場所なら誰に教わらずとも自然と手に取れる。
空いた穴の中に、指先からゆっくりと欠けている物を流し込む。
集中を深めていくエルマの顔を見ていた客人達が、手を取り合った。
「おお……!」
しかし外野が少しばかり騒いでも、エルマには何ら障害にならない。
(……懐かしい)
父の仕草を、歌をなぞり、在るべき場所に歯車達を戻していく。
それにしてもなんだろうか、この郷愁というか、ずっと薄まらない、むしろ増していく既視感は――。
充分に力を回復させたエルマが仕上げに切れた部分をつなぎ合わせると、カチ、と音がして、オルゴールが歌い出した。
それが耳に慣れたメロディーだったから、エルマは危うく取り落としそうになる。
――いつものお歌は、何の歌なの?
――何だろうねぇ。子守歌らしいけど。ぼくの家に昔から伝わっているんだってさ。
幼いエルマが聞いたとき、彼はそう答えていた。
――お家って、ここじゃないの?
――ここもそうだけど……昔は別の所に住んでいたんだよ。
彼が早すぎる死を迎えたとき、迎えがやってきた。
背の高い紳士と、ヴェールを被った女性。
――その子がアーレスの子?
男の人は怖かったが、ヴェールの女性は優しそうだった。
そういえばどこか父に、柔らかい雰囲気が似ていた気がする。
――君はファントマジットを知っているか?
既視感。そうだ、前に同じ事があったとき、最後にそんなことを聞かれた。
震える手の指先。なぞった部分に何か小さく文字が書かれていた。
追いかけたエルマの思考が、停止する。
アーレスバーン=ファントマジット。
「おお、アーレス……! この導きに感謝いたします……!」
老婦人が泣き崩れる音で、エルマは我に返った。
驚いて目を見張ると、彼女を支える紳士がユーグリークに顔を向ける。
男の目もまた真っ赤に染まり、今にも泣き出しそうな様子だった。
「十代後半から二十代前半の娘。茶色の髪と目。加護戻しの力を有し、スミレ色に瞳が変色する。極めつけに我が一族のみに伝わる歌を知っている……これだけ揃えば充分過ぎます。間違いない。彼女こそ、我が弟アーレスバーンと、彼が愛し抜いたシルウィーナの娘――本物のエルフェミア=ファントマジットです!」
エルフェミア――そうだ、それが自分の本当の名前だった。
欠けていた最後の記憶のピースが埋まる。
呆然としている彼女に、客人達が近づいてきて、手を握る。
「まああ! あの時も思ったけれど、シルウィーナによく似ていること……でも目元はアーレスそっくりね」
「その……君は急なことで、驚き、混乱しているかもしれないが……私は君のお父さんの兄、つまり君の伯父さんなんだ。そしてこちらは、お父さんの母親……君からすると、祖母にあたる方だ」
「覚えているかしら? 小さい頃、一度だけ会ったことがあるの。あなたのお祖父様がね、頑固な人で……お母さまからあなたを取り上げようとした。けれど、何日もかけて説得したら、自分のしようとしていることが八つ当たりだと、ようやく気がついてくれたの。けれどもう一度話をしに行った時、あなたたちは、もう……」
「我々もシルウィーナの後を追ったが、見つけた時、彼女は既に事故で亡くなっていた。私は、その……君も死んでしまったものと諦めていた。ただ、母がどうしても、死亡が確定していない間は諦められないと言い張ってね……」
つい先日、偽りの家族と手を離したと思ったら、今度は本当の家族が名乗り出てくることになるとは。
しかしエルマも、老婦人の声には聞き覚えがあった。
それにおそらく、直したのは父の持ち物なのだろう。
「ユーグリークさま……!」
助けを求めるように振り返る。
しかし彼は、下がってエルマと距離を取った。
「長い間、私の我が儘に付き合わせてすまなかった。だが、これで君はもう自由だ」
「……え?」
「お別れだ、エルマ――いや、エルフェミア嬢」
彼は礼儀正しく腰を折った。とても、他人行儀に。
「本物の家族と、幸せに」
そしてその日のうちにエルマはファントマジット家に連れられ、訳もわからないままジェルマーヌ公爵家を後にしたのだった。