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4.月と補修

 エルマは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

 言い出したのはこちらではあるものの、自分の提案が受け入れられるなんて、普通起こらないことだからだ。


 差し出されている布を見てようやく、男が自分に仕事を任せてくれる気なのだと理解する。


「ありがとうございます――」


 早速受け取ろうとしたのだが、うまくいかない。相手がずっと、手を離そうとしないのだ。


 困惑したエルマが思わず顔を見ると、じっと見つめ返される。先ほどより近い。吸い込まれそうな銀色は、磨きぬかれた鏡のようにエルマを映している。


 今度は一体何だろうか。顔に何か変なものでもついている? 男の瞳に映る自分は、いつもと同じやせっぽちの使用人に見える。これだけ近くで目が合っていると、そらすのもなんだか難しくて、エルマは硬直する。


 ヘビににらまれたカエルの気持ちが、今なら結構わかる気がする。いや、ヘビというより、オオカミとかの方がイメージに近いかもしれない。


「……この手が届く距離でも、なのか。こんな日が来るなんて……」


 男はそんなことをつぶやいて、ようやく布から手を離してくれた。


 手を引っ込めるか悩んでいたエルマは、慌てて両手をのばし、なんとか落とさずに済む。


 渡さぬまま黙ってじっと見つめてくるから、何か不満があるのだろうかと思ったが、全然違うようだ。

 むしろ今は嬉しそうですらある。


(お父さまとキャロ以上に、考えていることがわからない人だわ……)


 エルマはこっそりそんなことを思ってしまうが、手元に目を落とすと、そちらに注意が移った。


(これ……きっとかなりの高級布だわ……!)


 ぱっと見ただけでも身なりの良さそうな男だったが、実際その持ち物を手にしてみると、それだけで震えてしまいそうだ。

 自分たちが日頃手にしている物とは、全く別種類のものであることが理解できた。


 布は優しい柔らかさを感じさせつつ、ひんやりとして、つるつるもしている。

 固くはないが比較的しっかりしているようで、手で破こうとするとなかなか苦労しそうだ。

 時折指先にぴりりと走る感触は、魔法が編まれた素材特有のもの。


(布自体も見たことがないし、かけられている加護の魔法も……すごい、こんなに強くてきれいな編みに、直接触れられる日が来るなんて)


 月明かりにかざして観察すると、どうやら裏表があるらしい。

 片面を上にすれば月明かりが透けて見え、もう片方を上にすると透けなくなる。


(聞いた事があるわ……特別な編み方と魔法を重ねることによって、外側からは見えにくく、内側からは見えやすい、そんな布を作ることができるんだって)


 針子をしていたとき、一緒に働いていた女性達が、そんな噂のようなおとぎ話のようなことを口にしていた記憶がある。

 なるほどこの生地なら、顔を隠していても視界の邪魔にはならず、それなりに快適に過ごす事ができそうだ。


「どうした? やはり無理か?」


 物珍しそうに、目を丸くしたまま、何度もひっくり返したり感触を確かめたりしていたせいだろうか。


 エルマの様子を見守っていた男が、からかうように声をかけてきた。


 ところが意外にも、エルマが男に向けて見せたのは、ぎこちない笑みだった。


「難しくはあります。けれど、不可能ではありません」

「月が出てきたとは言え、夜だし、かなり暗いぞ? 本当にそんな――」

「大丈夫ですよ。……暗いのは、慣れていますから」


 見えない場所での針作業を気遣う言葉なら、エルマには無用だ。

 倉庫、屋根裏、地下室、橋の下。

 彼女の居場所は大抵薄暗い。手元が見えにくいなんていつものことだ。


 エルマはつぎはぎだらけのエプロンから、てのひら程度の大きさの裁縫道具入れを取り出した。

 持ち歩く癖がついたのは、針子として働いた時からだ。

 頻繁に物を壊すタルコーザ一家の世話をするのにも、必須道具と言っていい。


 エルマはその場に腰を下ろすと、仕事に取りかかった。針に糸を通し、しっかりとずれないように調整し、裏からも表からも縫い目が見えないように進めていく。


 先ほどたっぷり触らせてもらったときに、完成のイメージまで作り上げている。

 ゆがんだ部分を直し、整え、なぞっていく。

 物を直すのは、エルマの数少ない特技と呼べるものなのである。


 いぶかしげな顔をしていた男は、エルマが黙々と作業を始めると、今度は目を見張った。

 ぱっと口を開いたが、真剣な表情を見ると、邪魔をしてはいけないと気がついたようだ。


 彼もまた、音を立てないようにゆっくり腰を下ろした。

 銀色の目でじっと、彼女の横顔と、迷いなく滑らかに動く手、みるみるつながっていく布を観察する。


 そのうちに、小さな鼻歌が始まった。

 夜風に吹き消されてしまいそうなほどささやかなそれは、エルマの集中が深まったときに出てくる、無意識の癖だ。

 男は手を頬につき、心地よい微かな音に聞き入っていた。



 ぷつ、と仕上げに糸を断ち切る音で、エルマははっと気がついた。

 少しだけ呆然と瞬きしてから、できあがった布をそっと顔の前に広げる。


(我ながら、会心の出来かも……!)


 こんな上質な布、平民街ではまずお目にかかる機会がなかった。

 以前少しだけ触らせてもらった機会を思い出しながら針を通す時間の、なんと充実していたことか。


 達成感と、もう終わってしまったという、かすかな落胆がこみ上げてくる。


「驚いたな」


 男の声が聞こえて、エルマは飛び上がりそうになった。


 集中して作業すると、その他の事が目に入らなくなるのだ。

 布のことばかり考えていたせいで、一瞬依頼人の存在を完全に忘れきっていたのである。


(いけない……いつもは一人で作業をしているから)


「お待たせしてしまい、本当に申し訳ございません……」


 時々、自室で作業に没頭して呼ばれていたのに気がつかず、父と妹を激怒させてしまうことがある。

 無視は最もよくないとわかっていたのに、と青くなっていく彼女だが、男は首を傾げた。


「うん? ああ……全然退屈しなかったぞ? とても楽しかった」

(楽しむ? 針仕事を隣でしていただけなのに、一体……?)


 やっぱり不思議な男だ。あとたぶん、かなり変わっている。嫌ではないのだが……なんとも据わりの悪い気分だった。


「見せてもらっていいか?」


 うながされたエルマは、針が残っていないか確かめてからそっと渡した。


 男は受け取った布を、何度もさすったり、裏返して確認している。先ほどのエルマみたいだ。


(うまくできたと、思うけど……)



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