36.あんたのせい
「――姉さま。姉さま、起きて」
うっとりするほど優しい声に呼びかけられ、意識が浮上する。
息苦しい。何かの煙だろうか? むせてしまいそうだ。
くらくらする重たい頭を上げると、見知らぬ小屋の様子が目に入ってきた。
硬いベッドの上でエルマはゆっくり瞼を上げた。
「ここ……?」
「どこだっていいじゃない?」
とすん、と誰かが側に腰掛けてくる。
プラチナブロンドの髪に、空色の目。鈴のように転がる愛らしい声。
キャロリン=タルコーザだ。確か、エルマの……。
「姉さま、助けて」
「……え?」
寝起きにしても妙に頭が重くてはっきりしない。体を起こそうとしても、うまく力が入らなかった。
ぼーっとしていると、キャロリンはエルマの手を握ってくる。
珍しい――ことのようにも思うが、どうだったろうか。
「パパがね、失敗しちゃったの。でも、姉さまがここにいれば全部うまく行くわ」
「なにを……言っているの……?」
「変なのはどっち? あんたはエルマ=タルコーザ。あたしのお姉様。そして姉さまの物は全てあたしのもの。姉さまはタルコーザ家のできそこない。今までずっと、そうだったでしょう?」
そうだ。
エルマ=タルコーザは、一人だけ仲間外れのできそこない。母を殺した恩知らず。美人でもなく、魔法も使えない役立たず。
そんな彼女が自らの存在価値を示すには、死ぬまで父と妹に尽くす以外にない。
――本当に?
ぼーっとして、うまく頭が働かない。
けれど、以前のエルマなら何の疑いもなく飲み込んだ言葉が、今は引っかかって腹に落ちない。
キャロリンは笑っている。上機嫌な彼女を不愉快にするべきではない。
「姉さま。姉さまはあたしに何でもくれる。そうでしょう?」
「なんでも……?」
「そう。ドレスも、美味しい料理も、お菓子も、大きな家も、贅沢な暮らしも――あんただけが持っているなんて、おかしいでしょう? 恥ずかしいと思わないの? 思うわよね? 思わないなんて姉さまじゃないもの」
キャロリンの言葉を、否定はできなかった。
分不相応――その言葉は常にエルマにつきまとう。
けれど肯定もできない。ずっと違和感がきしきしと内側から引っ掻き続けている。何か、何かがおかしい……。
ひくりと眉を動かしたキャロリンが、焦れるようにエルマの手をつかんだ。
「姉さま。ねえ、あれはおかしいことだったのよ。何も持たない姉さまが、選ばれるなんて」
「選ばれる……わたしが……?」
「でもあれは間違い。選ばれるのはあたし。だから姉さま、認めて? あの人の隣にあんたがいたことは間違いだった。あたしこそ、真にちやほやされるべきお姫様なの――」
あの人。
その顔が浮かんだ瞬間、靄が晴れた。
エルマの目に光が、頬に血の気が戻ってくる。
キャロリンがけおされたように身を引いた。
エルマは起こせぬ体のまま、けれどひたりとキャロリンを見据えた。
「……無理よ。それは無理だわ」
「……は?」
「わたしは何者でもない。あなたと比べるまでもなく、あの人に到底釣り合わない。いずれ別れる時が来るでしょう。住んでいる世界が違うのだもの。それでも――出会ったことが間違いだったとは、絶対に思わない」
「み――身分違いでしょ!? あんたみたいな馬の骨がっ――」
「想うことすら許されないのだとしても、わたしがあの方をお慕いしている真実は偽れないわ」
その言葉はまっすぐ放たれた。
キャロリンから、かつてあれほど絶対的で逆らう事は許されないと思っていた相手に向けて、何ら臆することなく、また恥じることもなく告げられる。
「好きなの。ユーグリークさまが。……だからあの人のことだけは、譲れない」
あの日、月明かりの下で彼を見た――その時から、エルマの世界は変わった。
最初は戸惑うだけだった。何を考えているのだろう。なぜこんな自分に優しくしてくれるのだろう。
申し訳ない気持ちは、けれどあくまでエルマを大切にしてくれようとする態度に触れ続け、好意へと変わっていった。
ユーグリークにとって自分がふさわしくないという言葉なら、同意する。
だが、彼のくれた幸せは否定できないし、誰にもさせない。
この先何があろうと、けして忘れることはない。
エルマの毅然とした態度に、キャロリンの顔がゆがんだ。
徐々に状況を思い出してきたエルマは、じっと彼女を見上げた。
「キャロリン……ねえ、ここはどこ? ジェルマーヌのお屋敷は……皆は、どうしたの? それにわたし、あなたに聞きたいことが――」
突如破裂するような音が響いた。
驚いたエルマは少しして、それがキャロリンの笑い声であることを知る。
狂ったように笑っていた女は、ベッドから立ち上がり、エルマを見下ろした。
いつか見たのと同じような、ぞっとするほど冷え切った目で。
「だからパパに言ったのよ。あたしの思った通りじゃない! でも、仕方ないわね。あの人は自分が一番可愛くて、娘の事なんて昔からちっとも興味がなかったんだから。それに、あんたにあそこまで執着する男が現れるなんて思わないじゃない?」
「キャロリン……?」
「ほら、もう様もつけない。思い出したんでしょ? あんたはエルマ=タルコーザじゃない。あんたの本当の父親はとっくの昔におっ死んでて、あたしのパパはあんたの叔父さん」
エルマは言葉が出なかった。
あまりにもあっさりした答えだった。
十年以上――エルマの人生の半分以上、ずっと言い聞かされてきた常識を崩したのに、キャロリンはゆがんだ笑みを浮かべるばかりだ。
「――ようやく、いるべき所に戻ってこられそうだったのに。全部、あんたのせいよ。こき使ってやれば、少しは精算になるかと思えば……母親といい、本当にあたしたちの邪魔しかしないのね」
妹――ではなく、従姉妹はギラギラと目を輝かせ、エルマの髪に指を通した。
不安な眼差しでエルマが見守ると、ふっと彼女は真顔になる。
「あんたがあたしを不幸にした。あんたが不幸にならないとあたしの気が済まない。どうせもうこの先なんてないなら――汚しきって、道連れにしてやるわ」
キャロリンはそこで立ち上がり、一度部屋を出て行く。
エルマも起き上がろうとしたが、まだうまくいかない。さすがにおかしい。ぴくりと程度しか、体が動かないのだ。
なんとか頭を動かして、屋内の様子を探ろうとする。
窓はなく、天井からシンプルな灯りが吊されていた。ベッドの他に、道具らしきものが乱雑に散らばっている。倉庫みたいな場所なのだろうか?
床に綺麗な香炉が置いてあって、それだけ場違いに浮いていた。目を引かれたエルマは、はっとする。
(煙……そういえば、わたし……!)
そもそもジェルマーヌ邸でキャロリンと話をしようとしたのに、何かの瓶から吹き出た煙で意識を失ったのだ。
(もしかしてこれのせいで、体が……)
そこまで思いついたところで、部屋に人が戻ってきた。
今度はキャロリン一人ではない。
顔を隠した男達が、ぞろぞろと入ってきた。
いかにもならず者風情な彼らに見下ろされ、エルマはぞっと寒気に震える。
「好きにしてしまって、構わないんで?」
「ええ。楽しんでちょうだい」
舌舐めずりしそうな勢いの男がキャロリンに問いかけ、彼女は答えた。
驚愕してエルマが目を向けると、キャロリンは美しく――天使のごとく微笑んだまま、小首を傾げた。
「昔のあんたなら誰も相手にしなかったでしょうけど、今なら食いでもあるんじゃないの? たっぷり可愛がってもらいなさいな」
「やめて、キャロリン……!」
「そうよ、泣いて許しを請い、生まれてきたことを詫びなさい! あたしは全部見ててあげる。あんたが壊れるところを、全部」
うっとりと彼女は言う。
下卑た笑いを浮かべ、男達がエルマに手を伸ばしてくる。
「いや……やめて……!」
体すら動かせないなら、抵抗も逃亡もできない。
エルマはぎゅっと目を閉じた。
(ユーグリークさま……!)
その瞬間、外で野太い悲鳴が上がった。