35.タルコーザ
父が呆気なく死んで少し経った時の事だ。
母とお墓参りに行った。葬儀の日から、母の仕事が休みの日はいつも二人で歩いて行った。
掃除をして綺麗にした墓の前で、その日起きた事を話すのだ。時に同じ事を、飽きもせず。
思うにエルマも母も、そうして父を失った現実とゆっくり向き合おうとしていたのだろう。
小雨の日だった。だから雨具を着て出かけた。濡れるのは好きではなかったけど、母と一緒なら話は別だ。
手を繋いで機嫌良くエルマが歩いて行くと、いつも通りの景色の中に、見知らぬ男女の姿があった。
口ひげをたくわえた老紳士は、目深に帽子を被り、上等そうなコートに身を包んでいた。
婦人の方は喪服に黒のヴェールをまとっていて、顔がはっきりとは見えない。
エルマ達の方を見ると、二人ともはっと息を呑んだ。
母もまた、彼らを見ると体をこわばらせ、エルマとつないでいる手にぎゅっと、痛いほど力を込めた。
雨音の中、しばし居心地の悪い沈黙が流れる。
エルマは困惑して母を見上げた。彼女は食い入るように男女を見つめたまま、動かない。
「シルウィーナ、久しぶりね。少し痩せたかしら?」
「……奥様」
やがて女性の方が声をかけてきた。母の緊張は取れない。むしろますます強まった。
「その子がアーレスの子?」
見知らぬ女の声は優しく、なぜか愛おしむようにエルマを見つめていた。
エルマは母を横目にうかがう。今耳にしたのは確かに父の名前ではあるが、はたしてそう答えて良いものか。
「……貴様はメイドの分際で、我が息子アーレスをたぶらかした罪人だ。儂は今でも貴様を認めるつもりはない」
次に声を上げたのは老紳士だ。その瞬間、母はエルマを自らの後ろに引っ張り込んだ。
隠されたエルマは驚き、そっと影から大人達を見守る。
「あなた、なんてこと! あの子の愛した女性を、お墓の前でそんな――」
「だが死なせたのは事実だろうが。あのまま家にいれば、この女の手を取って出て行かなければ、アーレスはもっと長生きできた! 儂もあの子を、勘当なぞする必要は――」
大人の男の大声に、エルマはびくっと震えた。
それが見えたのだろうか、それとも傍らの連れ合いにたしなめられてか。
老紳士は激高を止め、深く息を吸う。
「……だが、子どもには罪がない。その子はこちらで引き取る用意がある」
「あなた!」
母はぎゅっと唇を噛みしめ、震えたまま立ち尽くしていた。
「貴様のことは憎い。許すことなどできそうにない。だが……孫は可愛い。アーレスの忘れ形見ともなれば特に。近いうち、また訪ねる。誰も頼れぬ女一人に育てられるのと、魔法伯の庇護を受けるのと――どちらが賢い選択か、考えておくがいい」
そうして老紳士はきびすを返した。
婦人は慌てて彼の後を追い、何度も何度もこちらに振り返りながら去って行った。
母はぶるぶる震えたままで、エルマは心配になった。
「お母さま。わたし、どこかに行かなければいけない?」
「……もし。もし、ね。とても綺麗で広くて、豪華なお屋敷で、何でも好きな物を着られて、いつでもお腹いっぱい食べられて、雨漏りの心配もなく柔らかいベッドで眠れる……そんな所に住んでいいよと言われたら、どうする?」
「お母さまは一緒?」
「いいえ」
「それなら、そんなもの、何もいらない! お父さまがいなくなってしまったばかりなのに、お母さままでいなくならないで!」
エルマはわあっと声を上げて泣き始めた。
母は慌てて振り返り、ぎゅっと娘を抱きしめる。
「エル――。ああ、わたしの可愛い子! わたしも嫌! アーレスを失った今、あなたまで手放さないといけないなんて……気が狂いそう!」
「それなら、逃げようよ、お母さま。ね、逃げちゃえばいいの。違う? あの人が来る前に、二人で別の所に行くの!」
母は泣きながら幼子の提案に頷いて、その日のうちに荷物をまとめた。
明くる朝、薄もやの中で父に最後の挨拶をして、二人で街を出て行った。
「お母さま、これからどこに行くの?」
エルマが聞くと、彼女は物憂げに窓に視線を投げかけた。
「……そうね。もう二度と足を踏み入れることはないと思っていたけれど……里帰り、してみましょうか」
「お母さまのふるさと?」
「ええ、そうよ。わたしの始まりの場所であり、あなたのもう一人のおじいさまとおばあさまのいる所――タルコーザへ、行ってみましょう」
そうだ。タルコーザは母の実家だった。
エルマを連れた母は、まずそこに向かった。
歓迎されるならもちろんよし。
そうでなくとも、全く見知らぬ土地よりは、伝手もあるし事情も知っている。
そこから再出発しようと考えたのだろう。
――そうして、エルマは二人に会った。
でっぷり太った男と、見たこともないほど可愛い女の子に。
「はじめまして、ねえさま!」
天使のような彼女は、そう言って微笑みかけてきた。
困惑するエルマの頭上で、硬い表情の母に、太った男がニヤニヤいやらしく笑いながら手を差し出した。
「やあ、シルウィーナ――姉さん。できそこないのあばずれが、結局男に逃げられて出戻りかい?」