33.まどろみに望むのは
寝台をよろよろ這い出たエルマは、鏡台の前までやってきた。
(……ひどい顔)
のぞきこんだ自分の顔ときたら。目の下にはくまができて、肌には血の気がなく、唇に至っては紫色に見える。頭が重いし、熱っぽい気もする。
エルマは元々体が丈夫な方で、タルコーザ家で使用人のように過ごしてきた頃も風邪一つひかなかった。彼女の数少ない取り柄の一つと言って良い。
ましてこの恵まれた屋敷の中で、ここまで体調が悪化するなんて。
(逆、なのかしら。安心できる場所だから、こんな風に……)
もう一度鏡の中をのぞき込む。
エルマの顔は元々、ゼーデンともキャロリンとも似ていない。それはエルマも自覚していたし、彼らにも言われていた。
記憶の中の母に似ている気がしていたが、彼女もまた青色の目をしていた。
ゼーデンもキャロリンも青系統の目――エルマだけが地味な見た目をしていて、仲間外れと思っていた。
しかし、こうして思い出した今ならわかる。
エルマの目は、本当の父親――アーレスバーンを写し取ったかのようだった。
丸い形も、焦げ茶の色も、そこだけ見ていると、まるで鏡の中から父が覗き返しているような錯覚を覚えそうになるほど。
(わたしの本当のお父さまは、小さい頃病気で亡くなってしまっていた……。けれどそれなら、お母さまは? 病死したのは彼女だと思っていた。確かわたしのせいで。そう、言われた。それに、ゼーデンさまとキャロリンさま――あの二人は結局、わたしにとっての……)
考えようとすると、ズキズキ頭が痛みを訴えた。
もどかしいが、これ以上無理に記憶をたぐろうとするのは危うい。
何もかもが億劫で、エルマはそのまま鏡台に突っ伏した。
重たい瞼を下ろすと、父が歌を口ずさむのが聞こえる。
優しい声。時折母も一緒に歌っていただろうか。全部忘れてしまっている間も、これだけは覚えていた。
(でも、どうしてわたし、今まで……こんなに温かい記憶なのに……)
ガラスの冷たい硬さに頬を当てたままでいると、誰かが部屋をノックする。
「エルマ様? まだお休みでしょうか。どこかお加減でも……」
そろりと扉を開けた小声の侍女は、直後驚きの声を上げた。
「まあ――どうなされました!」
なんでもないの、大丈夫、と答えたつもりだったが、どうだったろうか。
次にエルマが気がついたとき、ベッドの中だった。
傍らで本を読んでいたらしい侍女がすぐに気がつき、駆け寄ってくる。
「気分はいかが?」
「ニーサさん……?」
「お医者様は、きっと溜まった疲れが出てきたんだろうと仰っていました。このところ一層冷え込んで参りましたものね。申し訳ございません、あたくし、ちっとも気がつかなくて」
「違うの……大丈夫……」
「こういうとき、坊ちゃまがいらっしゃると良かったんですけどねえ。ま、いても何かできるわけではありませんが――」
いつものエルマなら、彼の手を煩わせる程のことでは、と言う所だ。しかしこの時は、心と体が弱っていたためだろうか。薄く開いた口からこぼれたのは、偽らざる本音だった。
「そうね……もっといつも、お側にいてくださったらいいのに」
ぽそ、と呟かれた言葉に、侍女は驚いたように目を見張り、それからくしゃりと相好を崩した。
「本当に、そうでございますわね。今度は直接言っておやりなさいませ。そうしたらきっと、日の高いうちから飛んで帰っていらっしゃいますとも」
傍らのたらいに浸した布を絞って、エルマの額に乗せる。
「ただいま、氷をお持ちいたしますね。他に何か、ご入り用の物はございますか?」
「……なにも」
「ベッドの脇に、お水とたらい、タオルもございます。何かあれば呼び鈴を鳴らしてくださいませ」
侍女が頭を下げて一度部屋を出て行くのを見送って、エルマは体を起こし、コップに手を伸ばした。
喉をうるおわせ、また柔らかな布の中に沈み込む。
高い天井に、広い部屋は、一人でいるのには寂しいような気がした。
父――アーレスバーンならばこんな時眠るまで側にいてくれただろう、と思い出すと、余計に切ない。
(ユーグリークさまが手を握ってくださればいいのに。そうしたらこんな熱、すぐに下がってしまうはず……いいえ、もっとどきどきしてしまうのかしら……)
熱のせいか、それとも昔を思い出したせいか。
エルマは幼い素直さの中でうとうとと、再びまどろみの中に溶け込んでいった。