32.赤
長くなりすぎたので分割しました。二話目。短め。
窓から出て行く人の群れを見送った後、何日かが経過した。
ユーグリークのいない屋敷で、エルマはいつも通り過ごしていた。
刺繍を続け、本を読み、屋敷の人間達と言葉を交わし、フォルトラの世話をする。
時折吸い寄せられるように門に視線が向いていたが、知らせはない。
「エルマ様、今日は少し早めにお休みになりますか? 近頃お疲れが溜まっているようで」
なんとなく落ち着かない気持ちでいると、体も調子を崩してしまうものなのだろうか。
侍女に指摘されてしまったエルマは苦笑いし、従うことにした。
早めにベッドに入るとなかなか寝付けそうになかったが、無理矢理にでも目を閉じる。
(何か……胸の辺りが重い。ずっと、引っかかっていることがあるような……)
歌が聞こえる。作業場で彼が鼻歌を口ずさんでいる。
またこの夢だ、とエルマは思った。知らない人と、母の夢だ。
(加護戻し……そうだ。わたしは時計の直し方を、知っていた。教えてもらったから……)
これは一体何の幻なのだろう? 幼いエルマは見慣れた家の中を走っていき、見知らぬ男の元にたどり着く。
瞳の色は焦げ茶だったが、肌と髪の色は薄い。線が細く、儚げな印象をしていた。
「いつものお歌は、何の歌なの?」
「何だろうねぇ。子守歌らしいけど。ぼくの家に昔から伝わっているんだってさ」
「お家って、ここじゃないの?」
「ここもそうだけど……昔は別の所に住んでいたんだよ」
彼はエルマを膝の上に抱え上げた。
作業台の上には乱雑に紙が広げられているようだ。
「昔はね、ずっと一年中ベッドの中にいた。季節も昼夜も関係ない。ただ、生きているだけの日々……」
「今でもよくベッドにいるわ」
「ははは。そうだね。ただねえ、これでも大分出歩けるようになったんだよ?」
彼が笑うと、エルマにも振動が伝わってきてくすぐったい。
ぎゅっと抱きしめられた手は少しひんやりしていて、けれどなぜかとても温かく思えた。
「……シルウィーナがね、花をくれたんだ。毎日、花瓶を取り替えてくれたんだ。あの日から、ぼくの世界に色がついた。だからぼくは、彼女と生きることにした」
「お母さま? 難しい話?」
「いいや。愛の話さ」
愛おしげに幼子の頭を撫で、彼は笑った。
首が痛くなってきたエルマは前を向き、なんとはなしに作業台に視線を向ける。
あちらこちらに、男の描いた美麗な文字が走っていた。その中で、一つの単語に目が吸い寄せられる。
――シルウィーナへ。アーレスバーンより愛を捧ぐ。
ずきり、と頭が痛み、エルマはうずくまる。
玄関の開く音がした。
「アーレス――あなた!」
帰ってきた母が男を呼んでいる。
頭痛がする。耳鳴りも。酷い悪寒が全身を駆け巡った。
(あなた……あなたって、だれ)
(アーレス。あなた。お母さまのあなた)
(それはつまり――)
唐突に光が見えた。
あるいはずっとそこにあったのに、目をそらし続けてきたものが。
(ゼーデン=タルコーザではなかった。わたしの本当のお父さまは……!)
美しい文字を書く人だった。
不思議な特技があって、エルマにこっそりやり方を教えてくれた。
ぼくは秘密の魔法使いなんだよ、と茶化して言っていたが、本当のことだとエルマも母も知っていた。
料理も掃除も洗濯も苦手で、おまけに体が弱かった。
――あの日は、寒くて真っ白な朝だった。
寝過ごしてきた彼は顔色が悪く、咳をしていた。
「あなた。ね、咳が酷いわ」
「いつものことだよ。ああ、だけど、少し仕事を入れすぎたかなあ」
「風邪かしら、疲れているのよ。今日は休んだらどう?」
母の言葉に、彼は笑って口を開いて――答えの代わりに、赤い赤い、血を吐き出した。
(――血を吐いて死んだのは、お母さまじゃない。お父さまだった。それなら……!)
ぐるぐる、ぐるぐると視界が回る。
倒れている。駆け寄る。今度は母だ。家じゃない。外。がらがらと車輪の音が遠ざかっていく。馬車だ。無責任に全てを壊して逃げていった。いや、違う。全部台無しにしたのはエルマだ。あれほど勝手に出歩くなと言われたのに。
「エル――。良かった、無事で……」
「お母さま。ごめんなさい。言いつけを守らなくて。ごめんなさい。勝手にお出かけして。もうしません、もう絶対に約束を破りません。だから……!」
泣きじゃくるエルマの前で、彼女もまた呆気なく事切れた。
背後から大きな影が落ちてくる。振り返ると、野太い声がエルマを怒鳴りつけた。
「全部お前のせいだ――お前が悪い、責任を取れ!」
――そうして、全部、かき消える。
鈍く重い痛みだけが現実を教えていた。