31.待てと言うならいつまでも
長くなりすぎたので分割しました。一話目。
エルマはそわそわ、自室を行ったり来たりしつつ、窓の外の様子をうかがい見ていた。
一応、作りかけのタペストリーを手にしてはいるのだが、ちっとも身が入らない。
(ユーグリークさまは、きっと閣下をお迎えにいらしたのよね。何かお話があるみたいだったけれど、終わったらすぐにお城に戻ってしまうかしら。今から戻ったら、夕食に間に合わないのでは……)
そんなことを考えても仕方ないし、仕事の邪魔をするべきではない。
と思うのだが、どうしても気になる。
やがてぞろぞろと、馬に乗った男達がジェルマーヌ公爵家にやってきた。
皆ユーグリークと似たような服に身を包んでおり、おそらくは騎士――ヴァーリスの護衛を務める者達なのではなかろうか。
エルマはぱっと、同じ部屋で針仕事を着々と進めていた侍女の方に振り返る。
「ニーサさん。ユーグリークさまは今日、お出かけされたらあちらにお泊まりでしょうか?」
「でん……もとい閣下は、『全然苦しゅうないぞ、というか僕も今日は外泊でいいんじゃないかな』とか言いそうですが。まあ、この時間からですと、今日の坊ちゃまは夕食もあちらでお召し上がりになるでしょうね」
「お見送りなど、させていただけると思いますか……?」
侍女はエルマを見つめてから、手早く裁縫道具を片付け、胸を叩く。
「危うきに寄らぬこそ賢者の証、という言葉もございますけれど、些事を疾くが万事平穏の元とも言います。あたくしの人生経験上、こういうものは早めのフォローが後の勝敗を分けますの。お待ちくださいな。ちょっと坊ちゃまに――」
「あの、ええとね、ユーグリークさまのお邪魔をするつもりはないの! ただ、今夜も帰りが遅いなら、お見送りをさせていただけたら嬉しいな、と思っているだけで――」
エルマとしては、侍女に無理でしょうと言われたらそれで諦めるし、いいですよと言われたらそろそろ玄関に足を伸ばす、ぐらいの考えだったのだが、かっと中年女性の目が見開かれた。
「エルマ様!」
「はいっ!?」
「控えめなのはあなたの良いところですけどね。配慮するのと甘やかすのは違います。仕事も家庭も両方顧みるのができる男、両方忘れさせないのができる女でございましょうや! あなたは坊ちゃまを、駄目人間にしたいのですか!?」
「ええっ!? い、いいえ、そんなことはちっとも――!」
「ではここで待っていてくださいませ! いいですね! 若者が情熱に身を任せないで誰がロマンスするのですか! けしからん!!」
「はい、すみませんでした……!」
正直、何故一喝されたのか、何を怒られたのかもよくわかっていないのだが、こうなると反射的に謝罪が飛び出る長年の癖である。
一人取り残されたエルマは、呆然と立ち尽くした後、またぐるぐる部屋を歩き回り始める。
(……追いかけて、引き止めた方がいいかしら)
気もそぞろな中、そんなことも思いついた頃、ばっと扉が開いた。
「男は度胸ですのよ!」
何やらえらくドスの利いた声と共に、ユーグリークが部屋に入ってきた。
いや、入ってきたというか……ぽーん、と投げ入れられた。
まさかいきなり本人が連れてこられると思っていなかったエルマは、目を点にした後、慌てて彼に駆け寄る。
「あ、あの、ユーグリークさま、すみません……今日お戻りにならないならお見送りをと、それだけだったのですが……!」
「見送りは大丈夫だ。ヴァーリスはもう仕方ないとして、他の奴らに君を見せたくない」
固い声で言われたエルマは、苦笑する。
「そうですよね。お目汚しになってしまいますもの」
「……そういうわけじゃなくて、ただ俺が君を――」
「…………?」
「いや……なんでもない。気にしないでくれ」
ユーグリークはため息を吐き、布を上げた。
何やらげっそりやつれている顔に、エルマはまた驚いてしまう。
「ユーグリークさま、お体の具合がよろしくないのですか? 顔色が……」
「あー……ヴァーリスに振り回されてちょっと色々あっただけだ。ここまで派手な逃走劇は久しぶりだが、まあ、比較的いつもの範疇だ。これぐらいならまだ余裕がある」
エルマはそれ以上深追いするのはよろしくなさそうだと察した。聞いたらこちらまで胃を痛める予感がある。
「ユーグリークさまはいつもお忙しくて……わたしも何か、お役に立てれば……」
「…………」
ユーグリークはぱっと口を開いたが、思いとどまったようで、しばしの沈黙を置いてから再度エルマに銀色の目を向ける。
「エルマ。もし……」
「はい」
「……もし、君に。本当の……。君が、本当は……。君の――」
だがやはりその先が続かない。彼は口を開けたまま停止した。
ちょうどその時、扉がノックされる。
「閣下。そろそろ……」
「……。もう少しだけ、待っていてくれないか?」
「かしこまりました」
時間を告げに来た執事を一度下がらせた彼は、改めてエルマをじっとのぞき込む。
吸い込まれそうな目に高鳴る鼓動を抑え、エルマは彼を見つめ返した。
「話すことが――話さなければいけないことが、ある。ただ、今は……まだ、言葉にするのが難しくて。それに……もう少し、ごたごたしそう、というか……」
じっと聞いていると、彼は一度ふっと考え込むように、あるいはどこか気まずく目をそらすように視線を下げ、再びエルマに合わせる。
「この後、何日か戻れないかもしれない。だが……これが終わったら、全部伝える。もう少しだけ、待っていてもらえないか?」
花がほころぶように、エルマは自然と笑みを零した。
「はい。――あなたが待てと仰るなら、いつまでも」
ただ一言。たった一言。けれど、まっすぐ見つめ、嘘偽りないとわかる言葉を与えられたなら、不安は瞬く間に霧散した。
なんとなく、置いて行かれてしまいそうな予感がして、それがきっと怖かったのだ。
だが、待てと言うなら、彼は帰ってくるはずだ。
それならもう、怖がることはない。
「……ありがとう」
「お礼を言うのはユーグリークさまではございません。わたしはまだ、ちっともご恩返しが終わっていませんもの」
「そう、言ってくれるなら。お願いを、してもいいかな……?」
「はい、何なりと」
「ここで送り出してくれないか。必ず、帰ってくるから」
エルマはユーグリークを見上げた。数歩下がり、教わったとおりの礼をする。
「いっていらっしゃいまし、閣下。ご武運をお祈りしております」
「――うん。いってくる」
彼はほっとしたような笑みを浮かべた。
なんだかそれは、今にも泣き出しそうな顔にも見えた。