27.好きなもの
フォルトラの世話をしたり、また刺繍をしたり、勉強をしたり――そんなことをしていると午後の時間はあっという間に過ぎていく。
執事が忙しい時は、別の使用人がエルマの勉強を手伝ってくれることもあった。
徐々に知り合いが増えていき、今では屋敷中の人間の顔と名前を覚えている。
最初は無言ですれ違う関係だったのに、言葉を交わす機会も増えた。
こちらから休憩に誘うこともあるし、あちらから話しかけてきてくれることもある。
「坊ちゃまはねえ。お堅いというか……お顔の事情があるから、どうしてもあまり人と近づきたがりませんでな」
彼らは色んな話をしてくれるが、最も興味深いのはエルマの知らないユーグリークについての話だ。
あまり本人のいない所で、と思う部分もあるが、ついつい聞き込んでしまう。
「お小さい頃は、可愛がられてはいましたが――まあ、人気者だな、程度だったんです。けれど年を重ねるごとに、力が強くなってしまって……成人する頃には、もうご両親以外のどなたにも顔を見せられなくなっていました」
「この屋敷に老いぼれ共しかおらん事には気がついておいでか? 旦那様と奥様のいらっしゃる本邸の方には、もう少し人もおりますがな。坊ちゃまの世話は、若い人に任せられませんで。私どもであれば、事故が起きた場合も、坊ちゃまに危害を加える可能性が低い」
「……エルマ様と一緒にいるときの坊ちゃまは、昔のあの方に戻ったみたいですよ。人と話すとき、何も心配せずに笑顔を浮かべていられた、昔の坊ちゃまに」
エルマは自分と一緒にいるときのユーグリークしか知らない。
だが、少しずつ、何故彼が自分にこれほど優しくしてくれるのか、理由が腑に落ちてきた。
――そうやってただ、君が隣にいて、見てくれる。俺は本当に、そのことに救われたし、今だって救われている。だから……だから今度は俺が君を助けたい。それだけなんだ。
(わたしが普通でいることが、ユーグリークさまの特別で、幸せ……)
けれどそんな風に考えると、つきりと胸が痛む。
エルマは自分が一体何に怯えているのか――あるいは傷ついたのか、わからなかった。
楽しい時間があっという間に過ぎると晩餐だ。
ここではドレスに着替え、髪も結い直す。
最初はかしこまった場にも格好にも落ちつかなかったが、少しずつ慣れてきた。
ユーグリークが帰ってくるときは特に念入りにめかしこんで、一日の彼をねぎらう。
これもまた、エルマの大事な仕事……らしい。
しかし、疲れきった雰囲気の彼がエルマを見てほっとしたような顔になると、こちらも満たされたような気分になる。
ユーグリークはエルマと食べるときは、皆を下がらせて顔の覆いを外す。
するとまた、エルマの気持ちはうれしさと切なさできゅっとするのだ。
(嬉しいだけのはずなのに、なぜかしら……)
「今日は何をしていたんだ?」
「縫い物をして、本を読んで……あと、フォルトラにおやつをあげました。ユーグリークさまは?」
「私か? 私は……仕事だな。今日もあちこち引っ張り回された。全く、もう少し大人しくしてほしいが……」
日々起きた事。
たったそれだけの話題なのに、ユーグリークはエルマがその日したことを興味深そうに聞いてくれるし、エルマも彼が何をしていたのか、聞いていて全く飽きない。
「好きな食べ物はできたか?」
「この前いただいたプディングが、本当においしくて。特にあの、焦がした部分が……」
「本当に? じゃあ毎日おやつで出してもらうように、厨房に頼もうか」
「そ、それはいいです! 時々だから、なおのこと嬉しいんです……!」
「そういうものかな」
「ユーグリークさまは、好きなお菓子はございますか?」
「お菓子? 甘い物は好きだ。ああでも、クリームがたっぷりついていて甘すぎるような奴より、もう少しさっぱりしている方がいい。……もしかして、何かエルマが作ってくれるのか? この前はクッキーを焼いたと聞いた」
「な……内緒です!」
「では私もその日まで忘れておこう。エルマは料理も上手なんだろう? 楽しみだな」
「買いかぶりです……!」
「家の連中は舌が肥えているから、自信を持っていいと思う」
本当に、本当に毎日楽しいことばかりで。
だから夜、お休みの挨拶をして、寝る支度を整えて寝室で一人になった時など、ふっ、と怖くなることがあるのだ。
(こんなに幸せでいていいのかしら……)
エルマはとっくの昔に刺し終わったハンカチを手に、ため息を吐いた。
ユーグリーク用のハンカチ、ということで、フォルトラを縫ってみたのだ。
翼を広げた純白の天馬――初めての柄だが、出来は悪くないように思う。
が、いざ渡すという時になると、どうにも気恥ずかしいというか、反応が怖いというか……だからあの後、ニーサには失敗してしまったからまた今度、とごまかして、無難に花模様のハンカチを仕上げたのだ。
ユーグリークは上手だと褒めてくれたが、いつもの心からの賞賛というより、何か疑問を覚えつつ、という雰囲気だった。
「縫っている間に何か起こるものだと思っていたんだが、そうではないのか……?」
なんてこともつぶやいていただろうか。
どうも彼は、初めて会ったときのことを高く評価しすぎたのだろう。
エルマはこっそり、彼に見せたのがフォルトラのハンカチでなくてよかった、と思った。
きっとがっかりさせてしまったのだろうし、少なからず自分も悲しい気持ちになったに違いない。
彼にはもう見せられないが、エルマが自分で見ていると温かくこそばゆい気持ちになる。
大切な彼との思い出が、浮かんでくるようで。
(――わたし)
エルマは唐突に、答えにたどり着いた。
好きな物。
ここに来たばかりの頃は、思いつきもしなかった。
けれど、屋敷で過ごすうちに、好きだったものも、好きになったものも、増えていって。
ユーグリークは毎日、エルマに尋ねてくる。
――好きなものは――?
(わたし……ユーグリークさまが、好き)
戸惑いの中に、常に好意がある自覚はあった。
それはずっと、同じままだと思っていた。
だが……違うのだ。
手の届くはずのないものから、毎日の風景に溶け込んで、隣にいてくれる人になってしまったから、その分エルマの気持ちも変わっていた。
ただの憧れより、もっと――ずっとこのまま側にいたいと望むようなものに。
(ああ、だから。わたしが普通でなければならないことが、少し寂しかったのかも……)
エルマにとって、ユーグリークは特別な、もうなくてはならない存在になっている。
だが彼がエルマに望むのは……普通だ。
エルマは彼のことを、普通の人間として接した。
避けすぎることもなく、近づきすぎることもなく。ただ目の前にいる人だった、ずっと。それがきっと、エルマに求められている、距離感。
(ユーグリークさまがわたしの特別になったとわかってしまったら……あの人は、傷つくのではないかしら。今まで自分を異常扱いしてきた、あの人の顔を見て態度を豹変させた……そんな人達と、わたしも結局は変わらないじゃないかと)
そんなことになれば、彼は心を閉ざし、もう二度とあんな笑顔を向けてくれることもないだろう。
絶対に避けねばならない。
エルマの想いは、知られてはならない。
しかし正体がわからずモヤモヤしていた時より、わかってしまった今の方がすっきりした心持ちですらあった。
(気持ちを抑えることは得意だもの。今、お側にいられるだけで幸せ。これ以上何を望むというの?)
大きく息を吐き出し、ベッドから立ち上がってくずかご入れの前までやってくる。
――だが。どうしても。
もう持っていてはいけない物と何度も自分に言い聞かせてみても、結局フォルトラのハンカチは捨てられなかった。




