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26.新生活と日課

 エルマの新しい生活が始まった。



 タルコーザ家では朝の準備のために夜明け前から起きておく必要があったが、この家に来てからはもう少しゆったり朝を過ごせるようになっていた。


 寝坊した翌朝は、気合いを入れて早く起きてみたはいいものの、今のエルマは着替えるにしろ朝食をもらうにしろ、朝の支度に誰か人を呼ばねばならないのだ。


(こんな時間からなんて……ニーサさんにも、きっとご迷惑だものね)


 ということで、結局その日はベッドの中で、屋敷の起きる気配がするまで待機することになった。

 後でちらっと話す機会があったら、「まあ! たたき起こしていただいても構いませんでしたのに」と彼女は笑っていたが。



 洗顔などを済ませたら、次は着替えか朝食だ。

 食堂で食べるか部屋で食べるかで、順番が異なる。

 ついでに言うと、起きる時間も若干変わってくる。


 ユーグリークがいる朝は、着替えて食堂に向かう。


 昼に着るのは大概ワンピースだ。化粧も髪も簡素に仕上げる。ひっつめていたタルコーザ家と違って背中に流すのは、最初はやはりなかなか慣れない感覚だった。


「似合う。とても似合う。いい」

「下ろしていると本当に可愛い。妖精みたいだな」

「今日は全部上げてしまったのか? いや、これはこれで……うん。うん……」


 ……なんて毎日言われていたら、なんかこう、自然と下ろすのが当たり前になっていったところもあるのだが。


「エルマ様。嫌なら嫌と仰っていいんですからね。坊ちゃまに気をつかいすぎる必要はございませんので。あの方、悪人ではございませんが、時々素直に過ぎるというか……まあ、そういう部分もありますから。染められますよ」


 とニーサに言われた時は、きょとんと目を丸くした。


「でも……慣れないだけで、困っているわけではなく……それに、しょんぼりした様子でお出かけされると、わたしも辛いです。髪型一つで一日元気に過ごしていただけるなら、これでいいのではないかしら……?」


 汗水流すような作業をするなら、しっかりと髪を上げておきたい。今はその必要がなくなっている。多少の違和感程度より、ユーグリークに喜んでもらう事の方が嬉しい。


 首を傾げた彼女は、「ごちそうさまです」と侍女に盛大なため息を吐かれてしまった。



 屋敷に来たばかりの頃、エルマの着る服は無地でしっかりした襟と袖がついているデザインが多かった。

 おそらく、最初にお仕着せを選んだような彼女の希望を反映した結果なのだろう。

 そのうち、裾がお洒落になったり、色が明るくなったり、花柄やストライプが持ってこられたり――徐々に、けれど着実に、エルマの服は増えていった。


「お嬢様、今日はどれにいたしましょう?」


 有能な侍女は、数日接してすぐ、エルマが自己主張――特に選択に不得手なのだと悟ったらしい。


 最初の頃はただ、彼女が持ってくる物を言われるまま身につけていた。


 そのうち、小物はどちらがいいかとか、髪型はどちらがいいかとか、服はどの色がいいかとか――少しずつ、それとなく聞かれる機会が増えていく。


「こちらの服は可愛らしく見えて明るい気分になりますね。けれど今日は寒いらしいですから、上着が必要かしら。こちらは袖がしっかりあって上着はいらないけれど、色合いが落ち着いていて、その分少し重めの印象になるかしら。エルマ様はどちらがよろしいですか?」

「それなら……明るい方が、いいかしら」

「かしこまりました。では合わせる物は――」


 ニーサはこのように、雑談に交えて考える手がかりもくれた上で、さらっと問いかけてくる。

 選択肢を出してもらうと、エルマも大分答えやすい。


「今日は庭に出るのか? 袖のふわふわが可愛いな。冷えないように気をつけて」


 思い切って、こちら、と指差した服をユーグリークに気がついてもらえた時、選ぶことの楽しさを知った。


「少し顔色がよくないな。何か心配事でも? ……昨日の夜、なかなか眠れなかった? すぐに医者を手配しよう。え、いい? いやしかし、風邪だったりしたらいけないし、念のため――そこまで言うなら、まあ、様子見で済ませようか」


 ……反面、彼は本当にエルマの変化に敏感らしいので、ちょっと気が抜けないなと思うところでもある。


 だが、張り合いがある――自分のしたことにポジティブな反応が返ってくるというのは、嬉しいものだ。


 それに、朝食後、エルマをじっと見た彼が満足するように頷いてから、「行ってくる」と声をかけてくれる。この瞬間がとても楽しく、愛おしい。


 遠ざかる背中を見送るのは毎日少し寂しいが、エルマの仕事の始まりでもある。



 日中、エルマは大概縫い物をして過ごしている。

 最初はひたすらハンカチの柄を刺していたが、やがて時間があるのだから、と布が少し大きくなっていき、小物の自作や、タペストリーにも手を付け始めた。


 一方で、もう一つ日課になっていることもある。

 勉強だ。文字の読み書きと、礼儀作法を、執事などに教えてもらっているのである。



 これはユーグリークのいない間、どうにも余ってしまう時間の使い方をエルマが、思い切って尋ねてみたことがきっかけだった。


「あの……ジョルジー……さん。わたし、ええと……すみません、正直、どうすればいいのか、わからなくて。ただ、ずっと一人でいるのも何か違うように思うのですけど、でも、皆様のお邪魔をするのもご迷惑と思いますし……」

「お嬢様はつまり、我々と仲良くなさりたいのですか?」


 執事の問いは何か別の意味を含んでいるように聞こえた。エルマは少し考えて、口を開く。


「わたし……本当に、どうすればいいのかが、わからなくて。きっとわたしは、今まで皆様と同じことをしてきました。けれどここでは……前と同じことは、求められていない。むしろしてはいけないことに思います。でも……でも、今のように、なんだかお互い避け合っているようなのも……せっかく、一緒の家に、いるのに」

「なるほど。お嬢様、礼節と親密はどちらも成り立つものです。あなたはどうやら、礼節を高めつつ、親密さも望まれているご様子。であれば、拙めも微力ながらお手伝いいたしましょう」


 エルマがつたないながらも自らの意思を伝えようとすれば、探るようであった執事の目が和らいだ。


「ご本を読むのはお好きですか?」

「あの……一応、文字の読み書きは、できるのですけど。本を読む習慣は、なくて……」

「であれば、拙がお教えします。この家には図書室もございますから、お時間がある時はそこにいらっしゃるのもよろしいでしょう」

「本を読んで文字を書くことも、わたしの仕事になりますか?」

「あなたが望むなら」


 エルマはぜひ、と希望した。

 すると執事は自分の仕事の合間に、エルマと本を読んだり、文字を書く練習に付き合ってくれるようになった。


 ついでに、ユーグリークの家の者としてふさわしい立ち居振る舞いやマナーも教わる。

 ユーグリークはエルマが何をしても許してくれてしまう所があるので、できていないところをきちんと指摘してもらえる機会はとてもありがたかった。


「とは言え……書く方は、拙に教えられることなどないように見えます。むしろ悪筆を叱られる立場でして、お恥ずかしい」

「エルマ様は本当に整って読みやすい文字をお書きになりますのね。仕草もいつも、お綺麗なのですけれど」

「はい。正直、初めて給仕をさせていただいた際、慣れないながらもかなりしっかりしていらっしゃる手つきで、驚きました。どこかで行儀作法を習う機会でも?」


 執事と侍女に、そんな意外な事を言われた時もあった。

 意外な指摘に、エルマは瞬きし、そして眉をひそめる。


 そう、どこかで誰かに習ったのだ、確か。幼い頃ではあったが、優しく、厳しく、教えてくれた人がいた。


 ――エル――。立ち方、歩き方、手つき。日常から綺麗に、よ! 食器は鳴らさない!

 ――ぼくみたいに文字が書きたい? それじゃ、ここに座ってごらん。まず、Aはね――。


(お母さまと……誰かが。お父さまじゃない……だってお父さまは、正直あまり文字が綺麗ではない。あれは一体、誰だったのかしら……?)


 思い出そうとしてみたが、頭が重く痛みを訴えて、それ以上はうまくいかなかった。

 その上心配そうな声をかけられてしまったので、エルマはいったん忘れることにして、再び勉強に戻った。



 天気が良ければ、昼食後は軽く庭を散歩する。服を着替えて、厩舎に足を延ばす。フォルトラの様子を見に行くのだ。

 天馬は希少である分、普段遣いというより特別な儀式で仕事をするらしい。ユーグリークはよく、勝手に遠乗りに連れ回しているそうだが。


 エルマはフォルトラに自由に会いに行く事が許可されていた。

 乗り手の許可も得られていたし、馬本人もありがたいことにエルマに懐いてくれているようなのだ。


 他の人間相手だと耳を絞って部屋の隅っこに行ってしまうが、エルマが来るとむしろ寄ってくる。


「本当、坊ちゃまに似てる馬……」


 とは、厩務員の言葉だったか。


 おやつのゆで卵をあげに行く事も、お尻を掻いてあげることも、ほぼ日課の一つになっていた。




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― 新着の感想 ―
[一言] エルマに色々教えたのは誰なんだろうね?
[一言] エルマが時間をかけて変わっていく様子に胸がキュンとなりました。 不安と健康的な身体を取り戻したエルマは綺麗なんだろうなぁと想像しながら、幸せになっていく過程を楽しく読まさせてもらってます! …
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