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閑話 レプティリアン

 ジェルマーヌ公爵領は王国北部に位置する。

 冬の寒さは厳しく、生きていくのに快適な土地とは言えない。

 だが、だからこそこの地では人材が重視されてきたし、領外からも数多くの人間が集まってくる。


 堅牢な壁に囲まれた都市内部は、雪の降らない時期はむしろ夏がしっかり暑い王都より過ごしやすいとすら評判だ。

 領内であれば街道も整備されており、何かあれば連絡は迅速に行われる。


 ――光が物を照らせば影が落ちる。


「壁内街道は人の道、壁外野道はけだものの道」


 整備された道を行くうちは互いに手を取り合ってたやすいが、一度そこから外れれば弱肉強食の修羅の世界――それが公爵家の治めている土地の本質である。


 夢見て集った者の中で正道を行けなかった者は、ひっそり光の側にまとわりつき、奪う機会を窺う。


 ケティ=ヤングと呼ばれる女もまた、影の世界の住人だった。

 彼女の人生の転げ落ちっぷりときたら、まるでお手本のようだ。

 平凡な家庭で家族に愛されていたが、今は誰も女を守らない。

 しかし本人にさほど悲壮感がないのは、生来の気質によるものか、それとも彼女にとってみれば光の世界も闇の世界も等しく価値が薄いだけなのか――。


 ともあれ、腹を満たしてきた女は、一般市民が通らない細い道や壁、屋根を移動して、普通の人間は近づこうとしない荒れた区画に移動していく。

 今回のねぐらは倉庫だ。いかにも管理が適当そうな、古くて汚い一画を選び、勝手に間借りしている。


 そんな誰もいないはずの倉庫から、鼻歌が聞こえてきた。

 彼女にとってそれは、良い知らせと悪い知らせを同時に告げるものとなる。


 良い知らせは、ねぐらにいるのがおそらく“彼”であろうということ。

 ケティ=ヤングの知り合いは少ない。世間は大体彼女を嫌い、除外しようとする。

 だが“彼”はケティを嫌わない。側にいていいと言ってくれる。

 しかも鼻歌なんてやっているなら比較的機嫌がいいはずで、姿を見せても大丈夫だろう。


 悪い知らせは、“彼”が戻ってくる前にケティが戻ることに失敗したこと。つまり、ねぐらが彼女が安心して眠れる場所ではなくなったということ。

 彼は非常に気まぐれで、何がきっかけで状況が変化するかわからない。

 上機嫌に笑っていたと思ったら、次の瞬間キレて刃物を振りかざす。それが彼という男だ。


 しかし、彼女にその場から逃げ出すという選択肢はない。

 彼の居場所は彼女の帰る先でもある。

 だからいつもと同じように、極力音を立てずに部屋に入っていく。


()()()()()、ただいま」


 鼻歌が止んだ。


 彼は自分の時間の邪魔をされるのは嫌いだが、挨拶されないのはもっと嫌いだ。今日は果たしてどちらに機嫌の天秤が傾くか。


 埃っぽい暗がりの中、男は髪を億劫そうにかき上げ、体を起こす。


「どこ行ってたんだよ、雌猫。まぁいっけど」


 男の容姿を一言で言うなら平均的。上流階級の客に混じれば浮くが、浮浪者にしては小綺麗だし整っており、庶民の雑踏であればさほど目立たない。そういう類いのものだ。

 だが一目で危うい人間であることがわかる、けだるくも張り詰めた雰囲気を身に纏っていた。


 特に印象的なのは目だろう。色合いはこれまた特筆すべき点もない茶色だが、妙に暗く、フラフラと揺れている。


 しかしケティは怯える様子もなくとことこ歩いて行って、彼の側近くにぺたんと腰を下ろした。

 男は当然のように彼女の腰に手を伸ばし、抱き寄せる。恋人や妻を扱うにしては、荒く粗雑な所作だった。


「食べ物、探してた」

「あっそ。客引っかけたのか? 金は?」

「ない」

「ないのかよぉ。まーいっかー!」


 何がおかしいのか、男は腹を抱えてケラケラ笑った。

 たぶん、彼もまた外で良い人間を捕まえることができたか、仕事がかなりうまくいったのだろう。

 でなければ、金を持ってこない役立たずの雌猫はたぶん張り倒されて蹴られている。


 良かった、ご機嫌は続いているらしい。

 しかしケティが指を口元に当て笑顔の真似をすると、途端に男は真顔になった。


「何笑ってんだ?」

「何も」

「笑ってやがるだろ? この俺を。ん?」


 目は据わっているのに声は甘ったるい。そしてケティを撫で回しているのと逆の手には、いつの間にかハサミが握られていた。鋭利な刃物の先端がきらりと輝きを放つ。


 ケティ=ヤングは特に怯えるでもなく、淡々と返した。


「真似しただけ」

「俺が笑ってるから一緒になってみたって?」

「うん」


 男の顔から表情が消えた。

 二人はじっと見つめ合う。

 静寂の後、再び男は声を上げて笑った。


「あはは、はは、あはははは! お前のそういう何も考えてないとこ、マジ好きだわ」


 ハサミを投げ捨て、男はケティを乱暴に抱き寄せる。口付けられてもケティは特に抵抗しない。されるがままだ。


「可愛いよ、雌猫」

「……」

「返事しろよ、寂しいだろ」

「うん」

「愛してるよ。お前は?」

「よくわかんない」

「冷たいなあ。でもお前は俺のことが好きだよ。俺ぐらいしかお前のこと愛さないもん。知ってる、知ってる」


 男はしばらくケティを貪ったが、満足した――というよりかは飽きたらしく、不意にぱっと体を離して辺りをキョロキョロ見回す。


「なあ? ガキはどこ行ったんだよ」


 一瞬、ケティのぬぼーっとした表情に影が差した。

 幸いにも、男は子どもを探す方に気が行っていたらしく、珍しい女の変化には気がついていない。

 ケティはうつむき、ぎゅっと服の裾を握りしめる。


「……って」

「ああ? 何つった?」

「いらないって……言った」

「俺がぁ? ガキを? ……まあでも、毎日言ってたかもな。けど、まさか、それで捨ててきちゃったのぉ? マジの猫みたいに?」

「…………」

「お前ってほんと馬鹿なのに、みょーなところで思い切りいいのな! あっははははははは……」


 ケティは黙り込み、男はまたケラケラ笑う。

 彼は笑いすぎて目元に浮かんだ涙を指で拭い、さっき投げ捨てたハサミを拾い上げた。

 持ち手の輪に指を引っかけ、くるくると回して遊ぶ。


「で? どこ置いてきたん」

「……どこ?」

「おーいー、雌猫よぉ。俺達さ、一応ガキこさえた間柄なわけじゃん? アレ俺の種の産物かわかんねーけど。ま、とにかく、お前さあ、馬鹿だし使えねーけど、でも本当に捨てるほどあのガキ要らないわけでもないだろ? 置いてきたのが孤児院程度なら、とっくにアイツも戻ってきてるはずだ」


 ケティの目が揺れる。こうなると彼女の方が分が悪い。

 男は表情と口調こそ先ほど一度キレかけた時より穏やかだが、だからこそ危険信号だ。

 頭に血が上っている時の彼は暴力に訴えるが、頭が冷えている彼は狡猾に算段する。

 ケティのようなぼんやりさんには思いつきもしない色んなことを考える。考えられてしまう。


「気に入らねえのがさあ。タイミング? だってほら、俺が折角二人ともお洒落にしてやったじゃん。客受けしやすいようにさ? で、俺が出かけてる間に稼いどけよっつったじゃん。帰ってきたらこれだったわけだけど。……な、雌猫。お前は嘘がつけないからね、金がないってのは信じてあげる。でもさ、本当はアイツ、どこ置いてきたの。お兄さんに言ってみ? ん?」


 キラッと刃物の先端が光る。

 男は話を区切るのと同時、弄んでいたハサミを持ち直し、逆手に構えた。

 彼の持つハサミはよく切れる。そしてよく刺さる。


 鈍いケティ=ヤングはこの後起こることへの想像までは考えが及ばなかったが、どうやら沈黙を保てなくなったらしいことには思い至った。

 俯いたまま、小さく言う。


「……お城」

「は? 城ォ? え、お前がいつも夢見てるメルヘンの?」

「うん……」

「ええ……?」


 毒気を抜かれた男は深くため息を吐き出した。


「まあいっか。お前ボコっても吐かねえ、つーか何言ってんのかわかんねーんだもん。はー、こういう所はガキの方が手っ取り早くてよかったなー……ま、いっけど。いやよくねえな? はー、全部めんどくさい。もー嫌だ」


 バタッと男は仰向けに倒れ込む。

 ケティが瞬きして傍観していると、ガバッと身を起こした。


「俺寝たいんだけど。疲れてんの!」


 苛立たしげにバンバン、と自分の脇を叩く。

 それでケティは、どうやら枕役を所望されているのだと気がついた。

 求められるまま、にじりよって近づく。


「ごめんなさいは?」

「ごめんなさい」

「いーよ。許したげる。おやすみー」


 膝枕を得て多少寝心地が良くなったらしい男が目を閉じた。

 剣呑な眼差しが消えれば、大分普通の人である。

 ケティはその顔を見下ろしたまま、ぽそっと零した。


「お兄ちゃん……」


 すると男は瞼を開き、酷薄な冷笑を剥き出す。


「お前のお兄ちゃんはねぇ。死んで墓も作られず腐っちまったんだよ?」

「…………」

「ジョーダン。寝るの起こしたら許さないからね」

「うん」

「どこまでわかってんのかねえ、このおバカなネコチャンは……」


 そして今度こそ男が眠りにつくと、倉庫にようやく再びの静寂と安堵が訪れたのだった。

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