24.記憶と朝食
笑い声が聞こえてくる。“彼”と母だ。
エルマがのぞいてみると、仕事場で二人が話している。
駆け寄ってみると、にっこりと微笑みかけてくれた。
「やあ、エル――。愛しのお姫様」
「ね、それはなあに?」
「これかい? 小物入れだよ。開かなくなってしまったんだそうだ」
「開けられるの?」
「たぶんね。なかなか頑固そうだけど」
“彼”は片目をつむって見せてから、そっと古びた小箱に指を滑らせた。
ひっくり返したり、なぞったり、つついてみたりしている。
「お母さま。あれで本当になんとかなるの?」
「なるわよ。エル――も知っているでしょう? あの人は本物の魔法使いなんだから」
――そうだ。“彼”は料理も掃除も洗濯も苦手で、おまけに体があまり強くなく、冬にはいつも咳をしていた。
けれど誰よりも美しい字を書く人で、たくさん、色んな人の言葉を代わりに綴っていた。
それにもう一つ、誰にも真似のできない特技があった。
「見てごらん、エル――。あれは“加護戻し”というのよ」
母がエルマの肩を抱いて囁きかける。
仕事中の“彼”の邪魔をするまいという配慮なのだろうが、そもそも一度“彼”が集中を始めたら話しかけても無駄なのだ。
特に鼻歌を口ずさんでいるのは、一番深く作業に没頭している時。
――崩れた魔法を編み直しているんだよ。そんな風に、本人は説明していただろうか。
“彼”のもう一つの仕事は、大概、曰く付きの品物の修理という形で持ち込まれる。
そして“彼”の手にかかれば、どれほど駄目だろうという物でも、元の姿を取り戻すのだ。
「……でも、全部直せるわけじゃないよ。ぼくに直せるのは、魔法の形がゆがんでしまった物だけ。完璧に破壊されていればさすがにどうしようもないし、魔法がかけられていない物の修理もできない。だってぼくがしていることは、曲がり、断ち切れ、ほつれてからまってしまった加護の糸を、ほどいて綺麗に並べているだけなんだからね」
エルマを膝に乗せて、そんな風に説明してくれたこともあっただろうか。
幼い頃の幸せな記憶に浸っていたエルマは、ふと首を傾げ、傍らの母を見上げた。
「あのね、前から不思議だったの。どうして昔のお母さまは、わたしをエルマって呼ばないの?」
エルマ=タルコーザ。それが彼女の名前だったはずだ。
なのに幸せな昔の事を思い出していると、時々別の名前で呼ばれているような気がするのだ。
途中から雑音のような物にかき消されて全ては聞こえないのだが、母はエルマの事をエルマと呼んでいない気がする。
「不思議な事を言っているのね、エル――」
母は首を傾げた。近くでは、“彼”が歌を口ずさみながら仕事を続けている。
この光景に、エルマは激しい違和感を覚えた。
自分と、母がいるのならば、残る大人の男は父――ゼーデンのはずだ。
だが、“彼”はゼーデンではない。
年を取って若い頃から姿が変わる事はままあるが、そういった差異ではなく、別人なのだと確信が持てた。
「――キャロリンさまはどこ?」
それに、一つ違いの妹が家の中にいない。母は首を傾げている。エルマはじりじりと後ずさりをした。
「お母さま。どうして教えてくれないの。お父さまとキャロリンさまはどこ? あの人はだぁれ? どうしてお母さまと一緒にいるの? どうしてわたしたちの家にいるの? どうしてわたしの歌を歌っているの? どうしてわたしと同じ――」
「――あなた」
その時、母が柔らかく、優しい声で“彼”に呼びかけた。
男がふっと顔を上げ、エルマを見つめる。
その目は先ほどまでの平凡な茶色と変わり、仄かに光を放つスミレ色に変わっていた。
(あなた。ね、咳が酷いわ)
(風邪かしら、疲れているのよ。今日は休んだらどう?)
あれは父が言ったのか? それとも母の言葉だったか?
なぜ幸せだった頃の景色に、ゼーデンとキャロリンがいないのだろう。
綺麗な、綺麗なスミレ色。
あの日、真っ赤な血を吐いて――。
エルマはぱちっと瞼を開くと、飛び起きて周りを見回した。
(ここ……どこ……!?)
おかしい。階段下でもなければ、屋根裏でも地下室でも物置でもない。
見たことがないほど広い部屋で、経験したことがないほど柔らかなベッドに寝ていた。
おまけにキャロリンが着ていたものよりも肌触りのいいレースがふんだんにあしらわれたネグリジェを身につけていた。
エルマは激しく混乱するが、徐々にこの状況を思い出していく。
(そ……そうだ、わたし……ユーグリークさまのお屋敷に、雇われて……)
はっとなった彼女はベッドから飛び出ると、大慌てでカーテンに手をかけた。
外を確認すれば、清々しい青空がピカピカの窓ガラス越しに見える。
爽やかな朝――いやもう昼だった。
さあっ、と顔から音を立てて血の気が引いたのがわかる。
(ね……寝過ごした! 初日から!!)
大恩に報いんと、誰よりも早く起きようとすら意気込んでいたのに、結果はこれだ。
ユーグリークが天馬を見せてくれた事で興奮し、寝付きが遅くなったのも悪かったのだろう。
何しろ、天馬は雑食でフォルトラの好物はゆで卵だとか、彼はユーグリーク自身が子馬時代から育て上げた一頭なのだとか、普通の動物には嫌われやすいため、フォルトラは遠慮なく触らせてくれる貴重な相手なのだとか――どれも面白く新鮮で、いつまで聞いても飽きない話だった。
あまりに二人で熱中して話し込んで、様子を見に来た厩番に呆れられた程である。
その後連れてこられた寝室が、あまりに今までと様子が違うので、緊張して一晩眠れないだろう――だから早起きできるだろうと思っていたのに、体は心より正直だったということか。
(ああ、なんたる怠慢……どうしよう……!)
寝坊したとは言え、さすがにネグリジェで飛び出すのはあり得ない。
急いで着替えようとしたが、昨日のお仕着せなどは部屋の中に探せなさそうだ。
やむなくエルマは、自力でなんとかすることを諦め、呼び鈴を鳴らした。
程なくして、あのふっくらした中年の侍女、ニーサが姿を見せる。
「おはようございます、エルマ様。よくお休みになられまして?」
「すみません、わたし、とんだご無礼を――急いで仕事を始めますので!!」
「ああ、いえ、いえ。大丈夫ですよ、そんなに慌てずとも。坊ちゃまからは、気の済むまでお休みいただきますようにと言付かっておりますし、気楽になさって」
侍女はひらひら手を振ったが、エルマはますます縮こまった。
「ユーグリークさまは、もうお出かけになられましたか……?」
「ええ。ま、朝ご一緒できなかったことは残念だったようですが、今生の別れというわけでなし、夜には戻っていらっしゃいますよ。さ、お腹が空いていらっしゃいますでしょう? 今ご用意いたしますので、少々お待ちを」
エルマが寝坊したためだろうか。今日は寝室で食事を取るらしい。
寝る格好のまま食事をするのは違和感があったが、そういえばキャロリンやゼーデンも、時々遅く起きると寝室まで朝食を持ってこさせることもあっただろうか。
何にせよ、きっとかなりの迷惑をかけているのだから、せめて早く終わらせてお皿を洗わせていただこう……と気合いを入れたエルマは、しかし一皿、二皿、三皿――以上がずらずらとテーブルの上に並んだ所で、目から光が消えた。
「あの……」
「はい、エルマ様。苦手な物はございますか? お好きな物があれば、厨房に頼んで持ってこさせますので。お代わりも遠慮なくどうぞ」
「いえ、そうではなく……明らかに一人分ではないというか……朝食と昼食が一緒になっているのでしょうか……?」
「すべてエルマ様お一人用ですよ? お好きな物だけつまんでいただいて、後は残していただいて構いませんので」
「残す……!」
エルマは絶望の声を上げた。
パンは複数種類が用意され、ジャムもバターも選択肢がある。
オムレツ、ソーセージ、ベーコンの他にサラダもたっぷりと彩られ、デザートはフルーツに甘酸っぱい乳製品……菓子パンまで揃えられているだろうか。
さらに飲み物も、ジュースに牛乳、紅茶とよりどりみどりで、おまけにスープらしきものまである。
「ええ、いらないものは残していただければ。今回はエルマ様の好みがまだわからなかったので、とりあえず定番メニューを一通り全部持ってきてみたということなのですけれど――」
「あの、わたし、パン一つで充分です……!」
「まあ、いけません、エルマ様! きちんと栄養を取ることも、エルマ様の大事なお仕事の一つですのよ。坊ちゃまへのご恩返しと思って!」
「食べることがお仕事なのですか……!?」
「エルマ様が坊ちゃまを少しでも喜ばせたいと思っているのなら」
そう言われてしまうと何も返せない。
エルマはずらりと並ぶ皿達を見つめた後、そっとニーサに横目を流した。
「残したら、捨てられてしまうのですか……?」
「え? ……ああ! そちらを心配していたのですね。あまり階上の方に大声では言えませんが、余った物など、階下でいただくこともございますのよ。フォルトラのおやつになることもあるんです」
「フォルトラの……」
それなら少し、罪悪感が薄れる。残した物が全部捨てられてしまうと言われたら、お腹を痛めてでも頑張らねばならないかと覚悟していたところだ。
エルマはほっと胸をなで下ろすと、気を取り直し、ひとまず一番親しみのあるパンに手を伸ばしたのだった。
「――さ、エルマ様! 次はお洋服の仕立てでございますのよ!」




