22.交渉と宣告
「それ、は――」
「エルマ――姉さまにそんなの無理よ!」
「キャロリン、無礼だぞ! これはとんだ失礼を――」
父が答えに窮した隙、キャロリンが悲鳴のような声を上げた。
覆面の男は相変わらず小娘を相手にしていないが、鬱陶しそうに顔をしかめたのが目に見えるかのようだ。剣呑な雰囲気を深め、無言でそっと一歩キャロリンから離れる。
ゼーデンは必死に頭を回し、口を動かそうとした。
「実に……思いもかけないことで、驚きました。誠にありがたい話ではありますが、とてもあの無能――いえ、大した才能もございませんで、あの者にこちらの家で働くなどという大役が務まるとは、到底思えないのですが……」
「……そうかな。私は本人も周囲も、彼女を低く見積もりすぎていると思う。かご一杯のラティーでは釣り合わない才能だ」
「そ、そんなに……? いやしかし、やはり信じがたい。あの地味な娘に、閣下をご満足させる何かがあるとは、とても……」
ゼーデンは冷や汗をかきつつ、ずる賢く思考を働かせようとしていた。
彼にとってエルマは今まで、何でも言うことを聞いて、面倒ごとを押しつけられる便利屋に過ぎなかった。
しかし、この男が何かを勘違いしているのか、それとも自分が見落としていたのか、エルマには知られざる価値があるらしい。
よもやすると、キャロリン以上のだ。
ここで手放すべきか、それとも手元で確保していれば更に値をつり上げられるのか。
髭を撫でながらぎらつく目で計算を始めたゼーデンに、様子を見ていたユーグリークが口を開く。
「しかし、そちらの事情を聞けば、私の希望はどうも無理難題のようだ。何しろ、実力への不安などという以前の問題で、忙しすぎて家から手が離せないらしいのだから」
「――! そうでございますとも! そのぅ……宅は少々、節約家庭でしてな。エルマには家の事を任せており、外に出られると問題が――」
「なるほど。どうもタルコーザ卿は、ご令嬢の支度に随分と手を焼いているらしい。ところで素朴な疑問なのだが、妹君はデビューするのに、どうしてエルマにはそうしない?」
助け船と思って飛びついたら、ぴしゃんとその手をはね除けられたような気分だった。
ゼーデンは一瞬すうっと目を細めてから、にたにたごまをする顔に戻る。
「……これはお恥ずかしい話なのですが。あの子は魔法の才能を受け継ぎませんでした。貴族の世界で、魔法を扱えぬ者に価値はございません。ですから、妹とは違う道を歩んでほしいのです」
「…………。確かに、そういう考え方も、この世界にはあるな。では卿は、エルマのことを思うが故に、妹と区別しているのだと?」
「まさにその通りでございます。閣下の慧眼におかれましては――」
「ならばなおさら、今から家の外に慣れておく必要があるのでは? 魔法が使えないとは言えタルコーザ家の令嬢であり、嫁ぎ先まで使用人として連れて行く訳にもいくまい。妹君も姉上の力を借りるのは今だけと心得られているはず。であれば、私の紹介先に勤める事は、エルマにとって悪い話ではないように思う」
タルコーザ親子の愛想笑いが、だんだんと取り繕えなくなってきている。
この顔を隠している男は、あまり人付き合いというものを好まないように見えた。
であれば、本来口八丁のゼーデンの独壇場にもできる場面のはずだ。
なのにいまいち、会話の主導権が回ってこない。
物静かで、感情を抑えたようなしゃべり方なのに、そのかすれた低い声には何か力が込められているようだった。
ユーグリークが喋っていると、それを邪魔してはいけないように感じさせられるのである。
「そこで私から更に提案だ。もし、エルマがこちらで働いてくれるなら、私は妹君の社交界デビューを支援しよう。いかがかな」
「パパ……断ってよ。無理でしょ、そんな」
キャロリンは今度は父親を小突き、小さく訴えかけてきた。
しかしゼーデンは鋭く目を光らせ、値踏みする粘つくような視線を男に向けている。
「支援とは、具体的に?」
「金を出そう。人手も貸し出す。エルマがそちらの家にいなくても、何の支障もない環境を用意しよう」
「そうですか……ならば、閣下がキャロリンの後見になっていただくことはできませんか?」
自分の意見が無視されてむっとしていたキャロリンの目が大きく見開かれ、次に大輪の花の蕾がほころぶかのごとき笑顔が咲き誇る。
「……どういう意味だ?」
ユーグリークは長い沈黙の後、唸るような声を漏らした。
ゼーデンはここぞとばかりにすり寄っていく。
やはり彼は、にわかにエルマにそれほどの価値があるとは考えられなかった。どういった経緯で二人が知り合ったのか知らないが、おそらく世慣れぬお坊ちゃまにとって物珍しかっただけなのだろう。
ならばこれをきっかけに、キャロリンを売り込みたい。金や人手がもらえるという話は充分魅力的だったが、更に上を目指したいと欲深な父は考えた。
「閣下のご厚意には誠に感謝いたします。しかし、やはりエルマの働きだけではご満足いただけないかと。キャロリンの社交界デビューのご支援をいただけるのですな? であれば是非、お側に置いていただきたく。必ずや充実した時間を――」
「ゼーデン=タルコーザ」
ぶわっと体中に鳥肌が立った。
何しろ先ほどまでの氷がごとき冷たさとは打って変わった、甘く囁くような声音がユーグリークから飛び出てきたからだ。
しかし、優しく語りかけられているのに、カタカタと歯の鳴る音が止められなくなるのはなぜなのだろう?
キャロリンに至っては、真っ青な顔のまま、吐き気を堪えるように口元を押さえていた。
貴族の男は、応接室の椅子の背もたれに手をかけ、静かに客人達を見据えた。
「私がほしいのはエルマだ。だからご家族の援助も厭わない。貴殿は一体、これ以上何の不満がおありかな」
真冬の雪野原、一面の銀灰色の中に、目もくらむほど美しい銀色のオオカミが一匹立ちすくんでいる。
それが牙をむきだして唸る。
その喉笛、噛みちぎってくれようか、と。
本能的に危機を覚える光景を目の当たりにさせられた錯覚を覚え、ゼーデンは震え上がった。
酷い失態だ。舞い上がってしまって、引き際を見誤るだなんて。
「めっ、滅相もない、何も! 何も不満など! ありがたく、お話を受けさせていただきます。それはもう、そちらの仰るとおりに……」
「ではそのように。ああ、話もまとまったし、エルマは今日からここにいてもらうので、そのつもりで」
「きょっ――今日から? まさか住み込み!? 嘘でしょ!?」
「い、いくらなんでも急すぎます。家の事が――!」
「何の不都合が?」
「しかし閣下――」
「卿、もう一度聞く。それで私に、何の不都合があるのだろう?」
男は心底不思議そうに、小首を傾げた。いっそ無邪気にも見える仕草だ。
ようやくゼーデン=タルコーザは理解した。
はなから自分に、選択肢など与えられていなかったことを。
「ジョルジー、お客様がお帰りだ」
そうして自分の用を済ませた冷たい男は、にわか仕立ての自称貴族には到底真似のできない優雅さでもって、親子を追い出したのだった。
***
「パパ! どうして何も言わなかったのよ!」
馬車に放り込まれた途端、早速キャロリンは父に噛みついた。
さすがの無謀娘も、屋敷の主人に逆らうことがまずいことは途中から察知したのだろうか。
いや、単にあの気に当てられて、今まで喋れずにいただけのようだ。
(堅気以外の人間にも会ったことのあるワタシだが……なんだ、あの尋常でない冷気は。あれが本物の貴族……そして、本物の魔法使いだというのか)
どっかりと座り込み、ハンカチで脂汗を拭う父ゼーデンは、不機嫌な目でじとりと愛娘をにらんだ。
「キャロリン、お前は命知らずなのか? あれは本物の貴族だ。下手に逆らってみろ、ワタシ達の首が飛ぶ。お前の社交界デビューを援助してくれるなら、充分な成果ではないか」
「でも……あたし、ちっともわかんない。あの男、あたしのことには全然目もくれなかったくせに、なんでエルマが!?」
「それは……ワタシも解せなくはあるのだが。ま、何にせよ問題あるまい? 元々いざとなれば娼館に売り払ってやろうと考えていた娘だ。想定以上の良い値がついたと思えば、上出来すぎる。それに、あのできそこないが公爵家なぞでうまくやっていけるとでも? すぐに分不相応を思い知って、家族の所以外他に行く場所はないと戻ってくるに違いない」
ゼーデンの言い分に、キャロリンは眉をひそめて口を尖らせた。
「パパは楽天的すぎるのよ。あんな屋敷で暮らしていたら、いくら卑屈なお姉さまでも自信を持ちかねないわ。それに……もしかしたら、昔のことまで思い出してしまうかも! そうしたらもう、今まで通りとはいかないわよ。わかっているの、パパ?」
「まあ、仮にあれが全ての記憶を取り戻したのだとする。それで何が変わる? どのみちあの小娘に後ろ盾はない。母親の死に関連しているのだって事実だ。お前の方こそ心配のしすぎだよ、キャロ。そんなことより、せっかくの機会を利用する事を考えなさい」
それきりゼーデンは話は終わったとばかりに、腕を組み、目をつむって馬車の中で居眠りする姿勢に入ってしまう。
キャロリンは忌々しげに父を見つめていたが、やがて窓ガラスに目を移し、ぎり、と歯軋りする。
「エルマ……あんたに勝ち逃げなんてさせるものですか。このまま終わると思ったら大間違いよ」
***
「……やりすぎたかな」
「あの手の輩には、どちらが上かはっきりわからせませんと。坊ちゃまはご立派でしたとも」