2.非凡と平凡
銀色の双眸に射すくめられ、全身が熱くなる。
心臓が心配になるほどの早鐘を打った。
まるで血が沸騰しているかのような錯覚を覚え、頭がくらくらしそうになる。
聞いたことのない楽器の音が聞こえ、かいだことのない香りが鼻をくすぐる。
この世ではない場所に、ふわふわと浮かんだ気持ちが連れて行かれる。
こんなに気持ちいいのなんて、初めて。
だからこそ、これは異常事態だとわかった。エルマに快いなんてことが、あり得ていいはずがないのだから。
(――深呼吸。息をして!)
突如体に訪れた異変を収めるべく、エルマは大きく息を吸って吐きだした。
苦しいとき、辛いとき、強く感情が動いたとき――エルマはそれらをすぐに収める必要があった。
ただでさえ迷惑をかけている存在なのだから、常に平常心と健康を保たねばならない。
父も妹も、エルマが感情的になるのは大嫌いだ。あるいは、おしおきの口実にされる。
(大丈夫。いつもと同じ。ゆっくり呼吸をしていれば、いつものわたしになる……)
心の中で自分に言い聞かせながら繰り返しているうちに、不自然な熱と衝動は収まった。
最後に大きく息を吸ってから、エルマは勢いよく頭を下げる。
「申し訳ございません。あの、のぞき見するつもりでは、なかったのですが……」
ぎゅっとつぎはぎだらけのスカートを握りしめる。いつも家族にしていることと同じだ。
エルマは毎日、怒られるために謝り続けてきた。それが彼女にとっての当たり前だから。
「その……お邪魔などするつもりは、全くなくて。たまたま、居合わせてしまって。立ち去ろうとも思ったのですけど――あの。本当に、悪気はなかったんです。が……」
しどろもどろな言葉がやがてしぼんでいき、途切れる。
父や妹ならとっくに大声が降ってきているはずなのに、この無音は一体なんだろう?
いや、それとも先ほど目にした光景は、空腹が生み出した幻だったのだろうか。
恐る恐る顔を上げれば、男は相変わらずそこにいた。しかし、奇妙な格好で硬直している。
片手で自分の顔を庇うように手を出し、もう片方の手は……飛びかかってくる何かに備えるような感じ、とでも言おうか。
(…………?)
思っていたのと異なる光景に、エルマは言葉を失ってしまった。
長い沈黙を経て、ようやく男が口を開いた。
「……なんとも、ならないのか?」
「え……?」
彼は顔を隠した指の隙間から、エルマのことをうかがっているらしい。
困惑した彼女は、次に納得し、それからまた困る。
(ああ、そうか。立派な服を着ていらっしゃる人だもの。こんなにみすぼらしい格好、見るにたえないということなのでしょう。でも、どうしよう。そんなに怒らせてしまっているなら、どうやって謝罪すればいいのかしら……)
やはり最低限、地面に頭をこすりつけるべきでは、と出そうとした手がびくっと止まり、慌ててエプロンに戻る。
男が動いた。
ゆっくり――いや、おっかなびっくりという様子で、顔の前に上げていた手を下げていく。
「…………」
「…………」
再び、二人は無言で見つめ合ってしまった。
銀髪の男が持っていた照明は、先ほどの乱闘騒ぎでもう消えている。
代わりに、ちょうど雲間に隠れていた月が顔をのぞかせ、彼の姿を照らしていく。
エルマは息をのんだ。
あるいは、ため息をこぼした。
――絶世の美男子。
改めて見ると、そう表すのがふさわしい外見だった。
大層凝り性の芸術家に作られた等身大の人形と説明された方が、よっぽど納得できそうな姿なのである。
月明かりに照らされた髪は宝石のような光沢を放ちながら、上質な絹地を連想させる柔らかさで揺れていた。
涼しく冷ややかな目元も、闇の中でうっすらと淡く輝く銀色の目も、高くまっすぐな鼻筋も、引き結ばれた唇も、なめらかな肌も――ひそめられた眉までもが、ことごとくすべて麗しい。
一面銀色の彼だが、左右対称の顔に、一つだけ違う部分があった。
右目の下の泣きぼくろ。
踏み荒らされていない雪原のごとき一面の白の中に、ぽとりと一色黒が落ちている。
けれどそれは彼の魅力を損なうことはなく、むしろより引き立てているのだった。
先ほどの言葉を思い出す。
――“魔性”の虜になんか、なりたくないだろう?
エルマも随分じっくりと相手を眺めていたが、男の方もかなり時間をかけて、上から下まで視線を往復させていた。
彼は信じられないものを見る目をエルマに向け、やがてかすれた声をもらす。
「――君、は」
呆けていたエルマは、男の声で我に返った。
慌ててぶしつけな視線を下にそらす。
「私の顔を見て、何ともならないのか?」
独り言のようではあったが、おそらくエルマに対する問いだった。何度か瞬きしてから、エルマは首を傾げる。
「なん、とも……?」
「おかしな気持ちになっていないのか?」
「おかしな気持ち……」
「私を自分のものにしなければ気が済まない――みたいな」
「…………」
エルマは思わず、また彼の顔を見てしまった。
ものすごい美形だ。そして真顔だ。なんという目力。
確かに尋常でない美男子だとは思う。ケチのつけようがない完璧な美貌だ。
が、なんというか、よいものを見せてもらったという感覚だけで、それに対して自分がどうこうしようという気には全くならない。
美しく、すばらしいものは常に、エルマのものではない。
だが、この世にそういったものがあるのだと実際目の当たりにすることは、ささやかな幸せをもたらしてくれるのだ。
(キャロリンさまなら、こんな素敵な人とお付き合いしたい、なんて考えるかもしれないけど……)
しかし、「ちっともそうは思わない」と答えかけた寸前、それもまた失礼なのではと思い至る。
(まったくなんとも思わない、は嘘だわ。確かに心動かされた。けれど、そこに私欲を混ぜるようなつもりはなくて……)
「あの……本当に、見たこともないほどお綺麗で……いえ、殿方に言うべきことではないのかもしれませんが。でも、あの……あ、あなたがすばらしいのは、本当で。ですから、わたしごときが触れていいものではない、というか……」
「私は綺麗なのか?」
「……………………。え?」