18.魔法と誘拐(疑惑)
着替えの済んだエルマは、客間に通された。
ユーグリークはエルマの姿が見えると嬉しそうに声を上げたが、直後困惑する。
「……お仕着せ?」
「ドレスより、こちらの方がいいと仰るので」
いぶかしげな目を向けられた侍女は、肩をすくめて答えた。
ユーグリークはしばし沈黙してから、納得の声を上げる。エルマは嫌な予感がして警戒した。
「ああ……そうか、古着はな。確かに失礼だった。今度はちゃんとしたものを用意してお――」
「違いますっ!」
「うん?」
「あのように豪華な服は恐れ多くて、たとえ一時でも袖を通すことはできません……!」
どうも彼は善意の塊なのだが、しばしば暴走する。
はっきりと「古さではなくドレスそのものが自分にとって問題なのだ」と伝えれば、今度こそ彼は困り顔を侍女に向けた。
「まあ、夜会用の服は確かに勇気がいるかもしれないが……そんなに派手な奴ばかりだったかな?」
「いーえ。普段着も部屋着もご紹介いたしましたとも。けれどエルマ様は随分と奥ゆかしいお方なのでしょう。それにこういったことに慣れていらっしゃらないご様子でした」
「そうか……なかなか難しいな。ドレスよりお仕着せの方がいいのか」
しかし彼がしょんぼりすると、エルマまで気分がしおれてくる。
「申し訳ございません……お手を煩わせて」
「いや? 楽しんでる。エルマといると刺激的だ」
心配したほどは、落ち込んでいなかったようだ。
だがこれは果たしてほっとしていい言葉なのだろうか、それとも一言二言何か牽制すべきなのだろうか。
若干曖昧な顔になったエルマだが、ユーグリークが近づいてきたので気を取り直し、ピンと姿勢を正す。
彼はエルマの顔の辺りに手をかざした。
ふわ、と髪が揺れる感覚。
「……うん。ちゃんとできたはずだ」
ユーグリークが手を下げた。エルマは首を傾げ、何気なく自分の髪を触って驚いた。
「……! ユーグリークさま、髪が乾いています!」
エルマの髪は丁寧に拭き取ったからぽたぽた水滴が垂れるようなことはなかったものの、まだたっぷりと水分を含んで冷たかった。それが、ほどよく水気が飛んですっきりした感触になっている。
おそらく彼は覆面の下で微笑みを深めたのだろう。
貴族は魔法が使える。これだけの屋敷を構える上級貴族ともなれば、かなりの実力があるのだろう。
それを今、はからずも体感したことになる。
「いつも自分にしかやっていないからな。よかった、うまくいって」
「まあ、坊ちゃま。髪はそのままでと言うのは……」
「うん。これがやりたかった。それにエルマはいつも上げているから、下ろしているところが見たかったんだ」
さらりと言われて瞬きしたエルマは、かーっと顔を赤くする。
普段より着替えに大分時間がかかったからなんとなく忘れていたが、髪は乾かすために下ろしたままなのだ。
こんなはしたない姿、家族にだってまず見せないのに。
「どうして慌てるんだ? 思った通り、下ろしていた方が可愛い。上げているのもあれはあれで、きりっとしている横顔が好ましいんだが」
「あうっ……!?」
「エルマの髪はまっすぐでさらさらだな。とても綺麗だ」
「う……うう……!」
慌てて束ねようとしていると、全く悪気のない追撃が飛んできた。時に本音とは罪であり暴力である。しかもエルマは覆面の下の破壊力も知っており、頭の中でなんとなく、彼がどんな顔で喋っているのか補完することができてしまう。
不審になる鼓動を、何度も深呼吸して収める必要があった。
侍女と――それからずっと部屋の片隅で立っている執事とは、露骨に浮かれている主の様子に顔を合わせ、どちらからともなく肩をすくめ、そして元の綺麗な直立状態に戻る。
一人嵐を起こした本人だけが、何事もなかったかのように(というか実際彼の主観では何事も起こってないのだろうが)振る舞い続けている。
「それよりお腹が空いているだろう? 晩には早いが、何かつまもう。ニーサ」
「はい、坊ちゃま。失礼いたします」
侍女が頭を下げて出て行く一方、エルマは晩、という言葉に反応した。
「そうだ、わたし、もう帰らないと……!」
「エルマ」
途端にユーグリークの雰囲気が固くなるが、エルマはまだ気がつかない。
「あの、ユーグリークさま。申し訳ございませんが、ここがどこなのか教えていただけますか? 現在地がわかれば、きっと帰り道も――あ、あの、ええと、お洋服は、後日洗ってお返しすれば、」
「エルマ。俺は君をこのまま帰すつもりはないぞ」
「…………。えっ?」
今までユーグリーク=ジェルマーヌはエルマの友であり味方であり、時に強引ではありつつもけしてエルマを妨げようとはしない男だった。この変化はどうしたことだろう。
思いもしない展開にエルマは立ち尽くし、ユーグリークは更に言葉を重ねる。
「家が心配なら、連絡する。迎えがほしいなら、ここに来てもらう。もし君が休むことで人手が足りなくなるなら、家の人間を代わりに送る。だから君が急いで帰る必要はない。違うかな」
「でも、あの……」
「この前は額。今日は耳、腕や手の甲に痣も増えている。そして君は雨の中で傘も持たずに泣いていた。私は他人に対して大分疎い自覚はあるが、あの状態の君を放っておく男が君の友達なんか名乗れないことぐらい、理解しているつもりだ」
エルマはすっかり気圧されていた。
彼はけして怒鳴ることはない。むしろ淡々と、感情を抑えるようにこの時は喋っていた。だからこそ、漏れ出る情が感じ取れて、かすれた声にすごみが増す。一つ一つ、確かにそうだ。
「それに。本当に君は、帰りたがっているのか? 悪いが、そうは見えないんだがな」
「わたし、は……」
エルマ=タルコーザは家族に尽くさねばならない。
それはかつて、エルマが母を死なせてしまった贖罪でもある。
ついこの前までは、何の疑問も覚えなかった。
――けれど、かご一杯のラティーが、少しエルマの心境を変えていた。
目の前で価値ある物を壊された上に、今までにない命の危険を覚えた。
手を上げられることがないわけではなかったが……なんというか、昨日は明らかに殺意が込められていた。
エルマの足取りが、いつにも増して重くなっていたのは事実だ。
(帰らなくちゃ。わたしは役立たずのできそこないで、それしか価値がないから。でも……だけど……)
ぐるぐると考え込んでいると、ふーっと大きく息を吐き出す音が聞こえる。
「お嬢様。立ちっぱなしもお辛いでしょう。まずは腰掛けては」
執事に促されたエルマは、柔らかなソファに腰を下ろす。
まるで羽のような感触に驚いて立ち上がりそうになるが、そのままぽすん、と音を立てて沈んでいってしまう。
その横で、老執事がユーグリークに向き直っていた。
「坊ちゃま。紳士たるもの、ご婦人に意地悪はいけません」
「……いじめてない」
「家に帰さないという台詞は、大分過激に聞こえましたが。誘拐犯ですか、貴方は」
「誰も拐かしてなんか――いや、この場合、そうなるのか……?」
反論しようとしたユーグリークだが、ふと自分のことを顧みたら何か思う所があったのだろうか。
しばし回答を待ってから、執事はおもむろに口を開く。
「フォルトラの声が聞こえたということは、乗せてきたのですよね」
「う……うん。そうだ」
「きちんとその前にこちらの意図を説明して、同意していただいた上でお連れしたのですよね? まさかとは思いますが、いきなり馬上に引っ張り上げたりなど」
「いや……えっと」
「つまり坊ちゃまの独断、不意打ちと。ならばお嬢様の困惑しきりのご様子も納得です」
「待ってほしい。いや、確かにな。ちょっと先走った気はする。だけどな……」
「でも、誘拐したんですよね?」
「…………。やっぱり結論、そういうことになるのか?」
執事はくるりと背を向けて部屋を出て行こうとした。その肩をがしっとユーグリークがつかんで引き止める。
「おい、やめろジョルジー。父上か? それともヴァーリスか? どちらにしろややこしいことになるだろうが。特にヴァーリスはよせ。何を言われるかわかったもんじゃ――いやなんとなく予想がつく分、余計に嫌だ」
「旦那様はともかく、どうせあのゴシップ大好き地獄耳殿下は、とっくにこの事態をご存知なのではないでしょうか。坊ちゃまの下手くそな処世術を試みるより、素直に助言を乞うべきかと――」
「――あの!」
思わず二人に割って入ったのはエルマだった。
ユーグリークが責められている気配となっては黙っていられない。悪いのはあくまでエルマなのだ。彼がなにがしかの咎を負うべきではない。
「ユーグリークさまは、何も悪くありません。わたしが全部、いけなくて……」
「エルマ、それは違うぞ。君は何も悪い事なんかしてない」
「でも、わたしが……」
「いや、俺が」
互いに自分が悪いんです、いや自分が、の応酬になりかけ、執事が空を仰いだタイミングで、侍女が折良く戻ってきた。
「さあさ。お茶にしましょうね。甘い物と飲み物がないと、人はうまく考え事ができませんから」