1.新婚の朝 前編
「ミルキー、また脱走してきたな。厳重に鍵をかけたはずなんだが……」
遠くでぼやくような声がした。エルフェミア=ファントマジット――もとい、エルフェミア=ジェルマーヌとなった新妻は、うっそりと瞼を上げる。
夢見心地な目をさまよわせれば、朝の柔らかな日差しが寝室に差し込んでいた。寝台の中まで日光が届いているわけではないが、部屋の中が知っている朝の情景より少し明るい。
「今朝のエルマはまだ寝ている。……ヒン、じゃない。俺に菓子をねだっても無駄だぞ。三食おやつまでもらっているはずだろう、食べ過ぎだ。ほら、厩舎に帰れ」
少し前に夫となったユーグリークの声は、耳に残る低く掠れた声をしている。抗議するように、馬のヒンヒンと鳴く高い声が響いた。そのやりとりに、エルマは思わず微笑を零す。
いまだ体を埋めている寝台から直接は見えていないが、なんとなく経験と気配で何が起きているのかはわかった。
幾多の試練を乗り越え、公爵子息ユーグリークと結ばれた花嫁には、多くの人から心のこもったお祝いが贈られた。
ミルキーもそんな贈り物の中の一頭だった。
もともとは、王家が所有していた天馬である。
薄いピンク色の小柄な馬体に白い鬣と尻尾を持つ、可愛らしい牝馬だ。体の一部にミルクを零したような模様があり、それがそのまま呼び名となっている。
まだ人を乗せる訓練も充分ではない若駒は、天馬の典型例に漏れず気性難だった。
ミルキーの場合は凶暴というよりマイペースで、自分が認めた人間以外の言うことは聞かないという性格が強いようだ。
そんな我が道を行く天馬は、いつものように城内の厩舎から脱走し、婚約者の勇姿を観戦しに来ていたエルマと出会った。ミルキーは令嬢のことがとても気に入ったらしく、大層懐いた様子を見せていた。
その現場に立ち会うことになった王太子が、後日こんなことを言い出したのだ。
「ユーグはいつもフォルトラと一緒にいるだろう? 公爵夫人となるエルフェミア嬢にも、専属の愛馬がいていいんじゃないのか。ミルキーはまだ訓練前だが、フォルトラを育てたユーグもいるから、今のうちに譲渡しても問題ないかな――」
かくてミルキーは公爵家にやってきた。
若い天馬は毎朝起きると、器用に、あるいは乱暴に厩舎から脱走し、エルマの――つまりは若夫婦の寝室まで挨拶にやってくる。
お目当ては自分を撫でる手と甘いお菓子である。天馬は雑食だが、ミルキーの場合はとにかく甘味を好む。クリーム系が一番のお気に入りなのだ。
優しい新妻に散々甘やかされた後は、怖い顔の次期公爵閣下に厩舎まで追い戻される。
これが最近の朝の風景となりつつあった。
だが今日は珍しく、エルマの方が遅起きだった。だから若駒はご褒美の前に、厩舎帰りを言いつけられてしまったらしい。憤慨のヒンヒン声が遠ざかっていく。
エルマは思わず、更に笑いを零した。
天馬とは不思議なもので、懐く相手と従う相手は別物らしい。
エルマは懐かれるが、指示は天馬の気分によって聞いてもらえる時と無視される時がある。
ユーグリークは好かれているわけではないが、どの天馬も大人しく言うことを聞く。
(あんなに怒っているのに、ちゃんと言うことを聞くのだもの……ユーグリークさまならマイペースな天馬でも御せるから、脱走癖のあるミルキーを任せられたというのもあるのでしょうね)
「ああ、エルマ……起こしてしまったか?」
ふふ、と笑った拍子に身じろぎしたためか、ユーグリークがこちらに気がついた。
近づいてくると、まだ寝室用の服装だとわかる。エルマより先に目覚めたが、支度はまだ、といったところだろうか。
エルマはゆっくり瞬きをし、寝台に寝そべったまま夫を見つめる。
「ミルキーがまた、起こしに来たの?」
「そうみたいだ。放馬癖は当分治りそうにないな」
「今日はクッキーを用意していたのだけど……」
「俺が先に起きた日は、朝のおやつはなしだ」
どうしても甘えられると甘やかしてしまいがちなエルマだが、ユーグリークは冷静である。その毅然とした態度には、長年近衛騎士筆頭として勤め上げてきた貫禄がうかがえた。
しかしそんな彼も、新妻に対しては一転して軟化し、砂糖菓子のような声音になる。
「今日はお寝坊さんだな」
「いつもは先に起きているもの……」
「違いない。このままのんびりするか?」
「……起きる」
この日はユーグリークもエルマも、出かける予定はない。
婚約中はあれこれ忙しかった二人だが、その分新婚中はゆっくり過ごすと決めていた。用事はできるだけ必要最低限なだけに留め、新婚の時間をたっぷり満喫している。
起きるとは言ったがなかなか体を起こさないエルマに、ユーグリークはふふっと笑い声を漏らし、髪を優しくなでる。心地よい感触にエルマはとろとろと目を細めた。
「……んー」
「起きたらご褒美、起きられなかったらお仕置きだぞ」
「お仕置きはいや……」
「頑張れ」
ぽんぽん、と妻を鼓舞するように軽く叩き、ユーグリークは離れていく。
エルマはようやく体を起こした。欠伸を手で押さえ、うーんと気持ちよく伸びをする。
「こっちにおいで、奥様」
ベッドに腰掛けてぼんやりしていると、夫の呼ぶ声が聞こえる。
誘われるように立ち上がると、彼はグラスに二人分の飲み物を用意して待っていた。
どこかの本から「寝起きの花嫁には花婿が手ずからお茶を入れること」という紳士の嗜みを仕入れてきた男は、妻の方が早く目覚めがちなためか、なかなか機会に恵まれずにいた。
いつか訪れる朝のために、日頃からあれこれ用意していたらしい。
「……まあ! レモネードですか?」
「うん。暑い季節だから」
元々貴族にしては珍しく、自分でお茶を入れられる男ではあった。どうやら時々手料理をふるまう妻に触発され、飲み物のレパートリーを増やすことにしたらしい。
手に取るとカランと氷が鳴る。二人のグラスを合わせてから呷れば、ほどよい酸味が喉を潤した。
「おいしいです、ユーグリークさま」
「それは良かった」
「果物を切るのも随分お上手になりましたね」
「練習したからな」
他愛のないやりとりを交わす――この瞬間が愛おしい。
笑い合って互いを見ると自然と距離が近づき、手が繋がれ、体が寄せられる。
「おはよう、エルマ」
「おはようございます、ユーグリークさま」
穏やかな朝の時間が流れていった。
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