番外編 地を駆るための脚 後編
無感動に数歩進んだ狼は、すぐに向きを変えて元の位置に戻ってくる。
その後ろについていっていた少年もすぐに戻ってきた。狼が座ると少年も座る。
老人は彼らの様子をじっと見つめていたが、無言が続くとしびれを切らしたように声を上げる。
「どうじゃ」
「どう。とは」
「なんかあるじゃろ! 良いとか悪いとか!」
「この身の術、問題ないです。じじいの術、未熟です」
「まさかとは思うがお前さん、今のはその確認をするためだけの動きだったのか!?」
「他に何があると……」
また老人がぎゃいぎゃい言い始めたので、狼は無感動に返す。
すると急に二人を置いて、少年が走り出した。裸足の彼の足音はいつもはぺたぺたしているが、草原の上では草を踏みしめるしゃくしゃくしたものに変わる。
「…………」
少年は無言のまま、作られた草原の感触を確かめているようだった。楽しそうに草を踏みしめて、くるりと狼の方に振り返る。
「にばん!」
「なんです」
「楽しい!」
「良かったですね……?」
簡潔な感想を述べると、少年は草原の上を行ったり来たりし始めた。ただそれだけのことなのだが、彼はとても楽しそうだった。
「ああしていると幼児そのものだの」
「未熟者ゆえ」
「じゃがあの瑞々しい感性は、お前さんも同じ分身体として見習うべきじゃ。さもないと――」
「さもないと?」
老人は手をくわっと構え、おどろおどろしい口調になった。
「儂のようなしわくちゃジジイになるぞよぉ……」
「…………」
これはどうやら結構な効果があった。狼が無言ですっくと立ち上がり、足早に草原の中を歩き出したのである。
「なんじゃ、しわくちゃはそんなに嫌か。まあ、嫌か……そんなに……?」
賢者は不服そうにそう呟いたが、かつて紅顔の美少年だった人間の劇的アフターは、竜にとって強烈だったのかもしれない。
狼は少年のように行ったり来たりではなく、すたすたと一直線に歩いた。元の中庭ならすぐに壁に突き当たっただろうが、拡張された魔法空間は見渡すどこにも行き止まりがない。その中を無言で狼は行く。
そのうちに、老人の姿も少年の姿も見えなくなった――かと思えば、まもなく背後に置いてきたはずの二人が視界に現れる。魔法で作られたこの空間は、いわばループ構造となっており、終端に至れば開始地点に戻ってくるようになっているのだ。
想定通りの結果に驚くこともなく、むしろこれでまた一つ検証を終えたという心持ちの狼が、ふと上方に視線を移す。まばゆい日が降り注いでいた。だが見上げる方の心は晴れきらない。
(偽物の空間、偽物の体。それで一体何を感じろと……)
不意に、柔らかな風がそよそよと風をくすぐっていく。これもまた人工物だ。本来吹かない風を吹かせている。
ただそのささやかな変化は、狼にとある思いつきをもたらした。
彼は視線を下げ、真正面を向く。再び歩を進める。今度はもっと速く動かして、すぐに素早く駆け出す。
ざっ、と音がした。音が変わった。風景は流れ、風を顔面に、全身に感じる。
大きく息を吸って吐く。魔法の氷から作られた体は、本来の生き物のそれとは異なる。脚を動かす必要はない。口を開ける必要はない。だが、なぜかそうしたくなってくる。形が動きを決める。
駆ければ当然、歩くより早く終端に辿り着く。だが狼は止まらない。日差しの下、風を作りながらひたすらに草をかき分けていく。老人がぽかんと口を開こうが、分身体の片割れが目を見張ろうが、もはや彼にはどうでもいいことだった。
高い日が傾いてくるほどの時間。
ひたすら走り続けた狼はようやく脚を止めた。本物の狼であればさすがに疲れを見せただろうが、魔法生物はピンピンしている。ぼんやりよどんでいた目は、すっかり曇りが取れて澄み渡っている。
「どうじゃ。散歩は悪くなかろう」
すっかり飽きて眠りこけている少年の枕にされていた老人は、狼が戻ってくるのを見ると呆れから満足に表情を変えた。目的の気分転換が果たされたことを知ったためだろう。
「悪くないです。それと――」
狼は言葉を切り、傾いた日がさしかかる幻の草原にふと目を向けた。
「どうした。何か見えたかの」
老人の言葉は促すようだったが、声音は何かを察したように優しい。
魔法生物は目を細め、やがて緩やかに首を振った。
「……なんでも。確かに、この世にはまだ未知が多い。老いている場合ではないのやもしれぬ――そう思っただけです」
◇◇◇
この手は何のためにある? 何も。手はただ手としてそこにある。それだけ。
じゃあお前は、その手で何をしたいんだい?
何……? わからない。考えたこともない。
なら、今考えてみてよ。遊びだよ、遊び。
…………。
何も思いつかないの? 万物の理を知っている竜なのに?
ない……。
……魔女。
魔女はその手で、何かしたいことがあるのか?
私? 私はねえ。手を……。
…………。
何?
……なんでもない。
私もこんな、何にもならない手なんかいらない。
代わりに脚が欲しいな。四つ脚。
脚……。
そう、地を駆るための脚がほしい。スピードの出る草食獣がいい。それで倒れるまで、どこまでも駆けていくんだ。獣になりたい。駆けるだけの獣に。
空の方が広いのに、脚でいいのか? 翼にすればいい。上下左右どこにでも行ける。鰭も悪くない、水場の方が地面より多い。
……なんで笑う?
さあ、どうしてだろう? 私にもわからないや。
ああでも、やっぱり……脚が欲しいな、私は。
…………。
あは、釈然としないって顔だな?
良かろう。お前は翼至上主義者らしいけど、それでももし、どこかで地を駆るための脚を貰ったら――その時はさ、草原をどこまでも駆けてごらん。何も考えられないぐらい速く。
そうすればどうして私がそれを欲しがったのか、少しはわかるはずだよ。