番外編 地を駆るための脚 前編
獣の脚は地を駆ける。
水獣の鰭は水を掻く。
鳥の翼は空を飛ぶ。
ある人が言うにはね。人の腕は、人を抱きしめるために、獣の足から進化したのだって。
私の腕は赤ん坊一人も満足に抱けなかったわけだけど、ふふ……つくづく、人間の失敗作なんだろうね。
お前には、普通の生き物よりも余分に手足があるわけだ。
空の中で生きるお前には翼がある。その大きな体を支えるために足がある。
……これはさ、今ふと浮かんだ素朴な疑問なのだけど。
それならその手は、何のためにあるんだい?
◇◇◇
「二号、散歩に行くのじゃ!」
老人の甲高い声に、うとうと暖炉の近くでまどろんでいた獣の耳がピリリと反応した。
人外は覚醒後の一瞬だけ、己の知るところと随分違う体の形に混乱する。が、すぐに「ああこれが今の器だった」と思い出した。
最果ての地に封じられている不死の漆黒の邪竜、ヨルン。
その恐るべき分霊体の二体目はしかし今、本来の竜の姿とも擬態する人の姿ともほど遠い、狼の形に収まっていた。
こうなったのにはそれなりに複雑な経緯があるのだが、ともあれ現在の彼は、大人しい方の飼い犬とさほど大差ない。ただし、一応の主人という立場であるはずの老魔法使いに対する態度は、けして従順とは言えなかった。
狼が億劫さを隠しもせずに薄目を開けた視界には、騒音の原因が映り込んでいる。
真っ白で長い顎髭に、年季の入ったローブとつばの広い三角帽子――賢者は今日も今日とて胡散臭い見た目である。更に今はくるくると杖を振り回して、見ているだけでうるさかった。
狼は拒絶するように目を閉じ、ご丁寧に前足で顔を覆う。
「いやです。その呼びかけもやめるです」
「なんでじゃ。お前さん二番目なんだから、二号じゃろうが」
「二番目は番号です。二号は……なんかいやです」
「ええ……? 儂のことは何度やめろと言ってもジジイ呼びするのに……」
一瞬無視を決め込もうかとも考えたが、すぐに無理だと諦める。何か話しかけられると返してしまうのは、すっかり染みついた癖なのだ。顔を上げて唸ると、ぐるると喉が鳴る。
「ジジイはジジイ。昔の可愛い顔はどうしてなくなったですか? しわくちゃです」
「そりゃ、お前さん……儂が老けたから……」
「人恋しいなら懐こい三番目に絡むです。鬱陶しいね」
「三号はむしろ放っておいても、勝手にフラフラどっか行きおるわ……今日もどこぞにほっつき歩こうとして、さっきようやく落ち着かせたのじゃ。というか猫もどきを撫でさせていたら急に爆睡し始めよったわ。なんなんじゃあやつは……」
狼は獣らしからず、大きく嘆息した。
三番目こともう一体の邪竜の分身体は、非常に異色の存在である。基本的に人間と敵対関係にある本体から生まれてきたくせに、人に妙な好意を持っている。しかも好奇心のままにフラフラと近づいていこうとするものだから、先輩である二番目がお目付役になっていないと、危なっかしくて仕方ない。
とはいえ現在の二番目には以前ほどの力もなければ気力もなく、邪竜の監視員である賢者が自然と保護者役も兼業しつつある。
「わしゃ引きこもりのお前さんを日干ししたいんじゃ」
そしてその保護者は、マイペースな三番目より無気力な引きこもりの二番目をどうにかする必要があると考えているようだ。
しかし、諸々考えれば誰にとっても、二番目がこうして暖炉の前で温くなっている方が安全に感じる。それゆえ二番目は老人に訝しげな目を向け続ける。
「何故外に連れて行こうとするです。逃亡されたいですか」
「いや逃げられたら儂はとても困るが……逃げてどこに行くつもりじゃ」
二番目は元々一番目の分身のために作られた存在、少し前に役割を終えて消失するはずだった。
監視の目から離れられたとして、一番目がこの世にいない今、どこにも存在意義はない。本体の元に帰還する意味もない。
とはいえ、どこへ向かうと問われれば、全く当てがないわけではない。狼はほんわりと、弟子と認める娘の姿を思い描く。
「……つがいの様子、見に行くですかね」
「今はやめんかい」
「なんでです」
唯一の心当たりをいざ言葉にしてみたら、賢者にものすごい剣幕で食ってかかられた。先ほどまでとは全く異なる相手の態度に、狼は困惑というよりむしろ呆れるような目を老人に向けている。
「良いか。新婚ぞ? 蜜月じゃぞ? それを邪魔するなどとんでもない!」
「……邪魔違う。ちょっと顔見るだけですよ?」
「甘いわ! この時期、婿殿は新妻にべったりじゃ。それはもう朝から夜までベタベタのでろんでろんのギューギューにきまっとる。お前さんの入る隙なんぞないわい」
「……ああ。つまり発じょ――」
「もちっと人間に配慮した表現をしてくれんかの!!」
「――熱心な巣作り中ですね。では邪魔しないです」
注文が多いと思いながら狼が言い直すと、賢者は非常に微妙そうな顔をしたが、最初の言い方よりは及第点だったらしい。狼は表現規制には素直に従ったが、かくりと首を傾げる。
「でもあの魔性、新婚中どころか一生巣作りしてそうですが」
「巣……いや、否めぬが。ってそれより、おぬしの散歩の話なのじゃ!」
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