番外編 にゃんにゃんエルマ(婚約者時代) 後編
突然想定外の出来事に見舞われた時、人間という生き物は多くが思考も動きも停止する。
訓練を行った騎士は、身体に害の出るタイプの危機的状況に対しては咄嗟に動けるのだが、このパターンは初めてだった。
そうして石化している婚約者に、エルフェミア=ファントマジットは幸せそうなほろ酔い顔のまますり寄ってくる。そう、すり寄ってくると表現するしかない。
日頃の彼女は甘える際ももう少し控えめなのだが、このときはまるで猫がごとく頭を隣に座るユーグリークの胸当たりに押しつけた。
ユーグリークは宇宙を見つめたまま、ほとんど無意識にストレートな愛情表現(?)を示す婚約者の頭を撫でる。
「んー……」
エルマが満足げな声を上げている。猫だったら絶対にゴロゴロ喉を鳴らしていたところだろう。ユーグリークは思わず指を伸ばし、耳の後ろをくすぐった。
「にゃ!」
エルマはぶるっと体を震わせたが、いやだったわけではないらしい。
――この辺りでようやく、公爵子息ははっとした。
どうやら普段はしっかり者で、二人きりの時ですら定期的に恥ずかしがって大胆な進展には足踏みしがちな婚約者が、酔っ払って猫のようになっているらしいという現実と対面する。
「エ――エルマさん……?」
「にゃー?」
思わず呼びかける際にさん付けである。素面であれば訝しげな顔をするなり苦笑するなりの反応が返ってくるのだろうが、酔っ払いにゃんこは可愛らしく首を傾げただけだった。
近衛騎士は思わず自分の鼻の下に手を伸ばした。幸いまだ鼻血は出ていないようだ。しかし精神面では既に満身創痍である。
だってエルマが猫の真似なんかしたら絶対に可愛いに決まっているけど、普段は頼んだってやってくれないのに。それがこんな無防備に。
「……たぶん酒が強すぎたんだな。うん。そういうことだよな」
「にゃん?」
「にゃ……いや、にゃんじゃなくて」
「にゃーん!」
「エルマ、にゃんじゃなくて、あの……」
「うにゃー……」
「にゃ……にゃー……?」
「にゃー?」
なんとか落ち着きを取り戻して状況への対処を試みたが、隣で打たれるにゃーにゃー相づちに巻き込まれたらもう駄目である。
だんだん、「いやもうこのまま一晩中にゃんにゃん言ってても、誰も損しないしいいんじゃないかな……」なんて気分にもなってきた。一抹の公爵子息としての自覚が、何かをせねばという意思をかろうじて残させている。
「にゃーん」
「にゃー!?」
しばらくはユーグリークにくっつくだけで満足していたらしいエルマにゃんこが、どうやら欲求不満になったらしく、機嫌の良さそうな声を上げながら婚約者に飛びかかった。
ユーグリークは思わず絶叫するが、衝撃が強すぎてエルマと同じ猫語(?)を口にしてしまったほどだ。ただし騎士の声はれっきとした男性のそれなので、結構野太めの悲鳴が響く。
これが他の相手だったら、すっと最低限の動きでかわすか氷付けにするかの無情な二択なのだが、相手がエルマなのでユーグリークもされるがままである。
仰向けに倒れ込んだ婚約者の上に乗っかったエルマは小首を傾げ、とろんと潤んだ目で婚約者を見下ろす。控えめに表現しても扇情的である。
(そんな、エルマ……俺の魔性にも屈しないのに、酒にはあっさり陥落して……いや違う! 違うぞユーグリーク、これはどうすれば……!)
するとユーグリークの耳に「ふんっ!」という鼻息の音が届いた。天の助けであろうか。
思わずぱっと顔を向けた先、少し離れた場所から、天馬が訝しげな顔をしてこっちを見ている。今日もご主人のデート中、倉庫に置いてあるものをぼんやり眺めながら暇を持て余していたのだろう。
まあ彼からすれば、ご主人とお気に入りのエルマがいつも通りいちゃついていたと思ったら、急に耳にしたことのない怪音(ユーグリークの悲鳴)が鳴り始めたのだ。何ならその前からエルマがにゃんにゃん言っているのだが、こちらは可愛かったのか特に気に留めていなかったようである。
馬は明らかに、ユーグリークの方を「なんでそんな変な音を立てているの?」という目で見つめていた。
(そうだ、フォルトラ……お前ならこの状況をなんとかできるはずだ!)
ユーグリークは子馬の頃から育てている愛馬に目で助けを訴えた。天馬は賢く、群れと認識した個体への仲間意識が強い。この危機的状況も察知して、助けてくれるはずだ。
というか、逆の立場、ユーグリークがエルマをうっかり押し倒したような場面で、後ろからどつきに来たことがあったではないか。ならば今回も同様に恋人達の過剰なスキンシップに突っ込みを入れてくれるはず。
――が、しかし。
「…………」
フォルトラはしっかりユーグリークに目を向けていたし、「なんとかしてくれ」という主人の必死な目の訴えも確認した。その上で、すっと視線をそらしたかと思えば、優雅に自分の身繕いを始めた。何呼吸分か、何か考えがあってあえての行動なのかと見守ってみたが、単純にこちらに興味を失ったことが確認できただけだった。
ユーグリークはシンプルに見捨てられたのか、エルマからユーグリークにじゃれつく分には別に自分の介入は必要ないだろうとの判断なのか。
(裏切り者――!)
ユーグリークはわなわな震えたが、元をたどれば酔っ払いエルマの原因は、酒入り菓子を食べさせた自分にあると言える。身から出た錆は自分でなんとかしろと言われてしまえば返す言葉もない。
どうしよう。一応婚約者だし、こういうパターンでは想定していなかったが、ちょっとやんちゃな関係になっちゃうことだって考えていたし、でも最終的には結婚するんだし、ただエルマを心から大事にするのであれば、やはり手順を踏むまで待つべきなのでは――。
忙しく考えを巡らせようとしたユーグリークだったが、ぽす、という音と、体の上に重みを感じる。
「…………」
エルフェミア=ファントマジットは、酔うと急速に顔が赤くなって比較的穏当な酒飲みの症状を呈した後、急速な眠気に負ける。ちょっと動いたことで更に酔いが回ったらしく、エルマはすやすや穏やかな寝息を立てていた。
(エルマ……ここまで俺を翻弄しておいて……!)
ユーグリークの胸中にいろんな感情がわき上がり、彼はすっと片手を上げる。
――が、結局、徒労に満ちた息を大きく吐き出した後、優しく婚約者の髪を撫でるのみなのだった。