エピローグ 新しい朝に
慌ただしい一日が終わり、ようやく静かな夜がやってきた。橙色の控えめな照明が、ぽつんと寝台脇で、夫婦の部屋を照らしている。
就寝用のドレスに身を包んだエルマは、下ろした髪を何度も撫でつけながらそわそわ花婿の訪れを待っている。
最初はセオリー通りベッドに腰掛けていたが、なんだか落ち着かずに立ち上がり――歩き回った末、結局ベッドに戻ってくる。
結婚式直前に起きた心臓に悪いあれこれの数々のせいで、体は割と疲れていそうだ。だが頭は冴えきっていて、「うっかり待っている間に先に寝てしまいました」なんてことには、どう転んでもなれなさそうだ。
割ととんでもない事態に直面しても、即入眠、翌朝完全回復、という経験を何度か繰り返した身。自分ってなかなか図太いというか、もはや鈍感なのでは? と思うようなことも過去にあったが、この夜はさすがにそのスルー力を以てしても流せないようだ。
ようやく人の気配がして、エルマは飛び上がる。
やってきたユーグリークもまた部屋着だ。しかも過去に見たどの服よりも隙があり、日頃より色気が三割増しぐらいになっている気がする。
エルマは思わず勢いよくベッドに腰掛け直しながら、ぱっと目をそらしてしまう。絶対緊張して舞い上がるから、事前に何をするとか何を言うとか、ある程度決めて予行練習もしたはずなのだが、新郎の姿を見たら全部吹っ飛んだ。
そわそわ膝に置いた手を握ったり開いたりしていると、ユーグリークが隣に腰掛けてくる。エルマはそれだけでひゃっと変な声を上げてしまった。二人の間に緊張が走る。
「な……何か、飲むか?」
「えっ……ええ、はい! いただきます!!」
先に仕掛けたのは新郎、と思いきや、まず緩和方策に走るようだ。新婚夫婦のために用意された酒を手に彼は戻ってくる。
「…………」
「…………」
不思議なもので、こうやって改まってしまうと、今まで散々触れ合ってきた間でもなんだか気軽になれないものだ。お互いにグラスを持ちはしたが、相手の出方を窺うように見つめ合い、結局どちらも口を付けない。
しばらくにらみ合いが続いてから、ユーグリークがゆっくり息を吸い、吐き出した。
「エルマ。その……こんな風に二人きりになるのは、結構久しぶりのような気がするな」
「そ……そうですね! この一月、定期的に会っていたはずなのですけど、なんだかこう、えっと……」
「大体俺のせいだな。君に随分迷惑をかけたから」
エルマは即答できなかった。少なくとも、ここ三日間ぐらいのエルマの激務模様は、どう頑張って言い訳してもユーグリークが原因の一つである。
「め、迷惑では……」
ないが、当然心配はしたし、実際かなり大変だった。口を開くまでに間を置いた上に、なんだか尻すぼみにごにょごにょしてしまい、ごまかすようにグラスに口を付ける。
……勢い余って全部飲み干してしまった。すぐに体が熱くなってきている気がする。お酒ではなくてお水にすれば良かったかもしれない。
とちょっと後悔していると、横でユーグリークもぐいっと杯を呷った。それで腹をくくったかように、彼は座り直し、エルマに体を向ける。
「エルマ。君は俺を憎からず思ってくれていると感じているし、俺も君が好きだ。だからこそ、この先に進む前に、確認しておいた方がいいと思う」
「は、はい……」
「この一月程度、君が俺に何か言いたくないことがあるのはすぐにわかった。でも俺は、君から無理に聞き出すより、知らないふりをする方を選んだ。……君の判断を信じたからだ、と言えれば良かったのだろうけど、残念ながらそれだけじゃない」
「…………」
「俺は……ずっと怖いんだ。君と出会えたことは奇跡みたいだ。だからいつかこの瞬間が消えてしまいそうで怖い。俺には君しかいない。でも君には俺以外がいる。そのことが怖い」
「そんなことは……」
ない、と言いかけたが、エルマは途中で言葉を切った。
ユーグリークの魔性が効かないのは自分だけ。それはもしかしたら、検証されていないだけで、他にも例外はいるのかもしれない。
だが魔性を抑えられる人間は、間違いなく自分だけと言えるだろう。通常の人間には――人間の枠に収まっている限りは、魔性をどうにかするのは不可能なのだから。
ユーグリークにはエルマが必要だ。エルマがいなければ彼の生き方は変わる。
エルマはそうではない。
想い合う気持ちは同じでも、二人には確かにお互いを必要とする理由に差がある。
「君がどれだけ俺を想ってくれているか頭で理解しているつもりでも、君が俺のためにどれだけ身を削っているか目の当たりにしても、それでも不安が消えない。早く確かな証が欲しかった。今日さえ迎えてしまえば、きっとそれで何もかもうまくいく。だから俺は、目をつむることにした」
「ユーグリークさま……」
「――でも、ようやく気がついた。今日どんな夜を越えて、どんな明日の朝を迎えるとしても、俺は君が好きで、君が俺にまだ夢中でいてくれているか心配するんだ。どれだけ愛を交わしても、書面で縛り付けても、子どもを授かっても……俺は際限なく、ずっと君を求め続けるだろう。それでいい……というか。そうするしかないんだ」
エルマがはっと顔を上げると、思いかげず穏やかな微笑を魔性の男は浮かべていた。今までの彼とどこか少し違う。彼の魔力は相変わらず膨大にその身からあふれ出しているが、とても安定して、穏やかに凪いでいた。
手が伸びる。触れられる。それはとても心地が良いことだ。
「エルマ。竜に選択を迫られたとき、ほとんど迷わず、俺は自分を殺して君を残す方を選んだ。後悔はしていないし、この先また同じ事があっても、何度でも同じ事をする。……それが俺だ。俺の君への想いは揺るがない」
グラスが重なり、ユーグリークの手にまとめられる。余計なものはベッド脇に避けられて、ユーグリークはそっとエルマの片手を取る。
「……こんな男でも、いいか?」
エルマはにっこり微笑んだ。取られていない方の片手をそっとユーグリークに重ね、自分の頬に寄せる。
「そんなあなただから、ずっと側にいたいの」
「……エルマ」
「あなたも側にいてくれる? わたしも……また、あなたに話しにくいことが、できるかもしれないけれど」
「いいんだ、エルマ。いいんだ……側にいてくれるなら、それで、」
愛する者達は身を寄せ合い、顔に、手に、唇に触れ合う。何度か軽くついばむようなキスを交わした時、エルマが慌てたようにユーグリークの胸元に手を突っ張った。
「……エルマ?」
「わ、わたし……その。ええと……」
「何か気になる?」
「明かりが……」
「これ以上消したら真っ暗になるよ。俺はまあ、それでもいいけど」
「うう……あ、あの! えっと……」
「まだ何か?」
「その……わたし、魔性をどうにかするために、竜の要素を受け入れた、というか……」
「それが何か?」
「い、今までのわたしと、どこか違うかも……」
「じゃあ今夜、確かめてみようか」
寝台に押し倒された花嫁のドレスの紐がするりと引かれる。
「ほら、角も牙も翼も尾もない。……可愛くて綺麗だよ、エルマ」
身じろぎを感じて緩やかに目が覚めた。うっすら瞼を開けると、間近に寝顔がある。
近くで見ても文句の付けようがないほど美しい顔だ。ただ今は、常にないほど無防備で、なんだか随分あどけない。
エルマはうっとりと、名実ともに夫となった人に魅入る。
この先、彼の顔を知る人は増えていく。きっと自分たちの子どもも、父親の顔を一生知らずに済む悲劇には見舞われない。
でもたぶん、この彼の顔を……安心しきって、幸せな夢を見ている時の寝顔を知るのは、きっと妻たる自分だけの特権なのだ。
やがて銀色の睫毛が震えて、ゆっくり瞼が開く。
「……おはようございます、旦那さま」
昨日とは違う新しい朝は、すがすがしく、心地よく、そして幸せに満ちあふれていた。
第三部も完結です。
仕込んだものの本編に収まりきらなかったネタなどは、後日番外編として追加しようかなと思います。
また、コミカライズ版もアプリ&Web公開中ですので、是非お楽しみください。
ここまで少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマーク、評価、感想、レビューなどで応援していただけると、作者の励みとなります。
評価は画面下にスクロールして☆☆☆☆☆を押すと送信できます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!