14.回想と雨
タルコーザ一家は、最初からこうだったわけではない。
母が生きていた頃は、父も優しかったのだ。
二人とも貧しくていつも忙しそうだったが、笑いがあふれて、明るい家庭だった。
父はよくエルマを膝に抱えて、歌を口ずさんでいた。
お父さまの家に伝わる古い歌なんだよ、と、懐かしそうに目を細めて。
今でも耳に残っている。昔は毎日歌ってくれたのだ。
ある日の朝、いつも通り家族揃って慌ただしくも楽しい朝食を取っていた時の事。
母が咳き込んだ。
(風邪かな、疲れているんだよ。今日は休んだらどう?)
父がそう声をかけると、母は弱々しく笑い、応じようと口を開いた。
けれどその口から出てきたのは、真っ赤な血だった。
(エル――。――……)
エルマは血を流す彼女に駆け寄った。がらがらと音が遠ざかっていく。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくりながら何度も謝った。
母の目から光が消えた瞬間、背後から大きな影が落ちてきた。
(お前のせいだ!)
どなりつける声に、息が止まりそうになる。
すると今度は優しく、ささやくように、大きな人間は言い聞かせた。
(お前が悪いんだよ。お前が母さんを殺したんだ。だからお前は、家族につぐなわねばならない。そうだね、エルマ)
ああ、頭が痛い。じくじくと、きんきんと、割れてしまいそうだ。
がらがら。ばたん。うるさい。ドタドタバタバタ、行き交いの音。何も聞きたくなくて耳を塞ぐ。
――ふと、顔を上げてみれば。
誰かがエルマを見ていた。
すみれ色の目が、じっとエルマを見つめ続けていた。
翌朝、エルマの目は腫れていた。
酷いことがあった上に、夢見も悪かった。
久しぶりに死んだ母のことを思い出すなんて。
実のところ、エルマは幼い頃のことを、具体的にはほとんど覚えていなかった。
母が優しくて、恐ろしい死に方をしたことは、鮮烈に焼き付いている。
全身が焼けつくような激しい後悔も、「お前のせいだ!」という雷のような声も。
それ以外は色々と曖昧で、キャロリンが生まれた日のことも確かにはわからない。
ただ、けれど、自分のせいですべて台無しになるその前までは……確かに、本当に、皆で幸せだったような気がしているのだ。
鏡を見なくても、酷い顔をしている自覚があった。
けれどそんな有様を見て、妹は溜飲を下げたらしい。
エルマを見た途端、目に見えて機嫌が上向いた。
「姉さまは庭で草むしりをしてね」
それでも用事を言いつけることは忘れない。
外はあいにくの雨だった。
父と妹は外出の予定をやめてのんびり過ごすつもりらしいが、エルマに休みはない。
「おい、お前。今日はキャロリンのおやつを買ってこい」
そして父はいつも通り、雨の日は意味もなく買い物を言いつける。
エルマが酷い顔をしていようが、おかまいなしだ。
むしろ、無言で会釈して立ち去ろうとすると、自分の側に呼びつけて釘を刺した。
「良いか。ワタシ達はもともと貴族だった。だが、お前が生まれたせいで、家を追い出された。母さんはお前が無能だから、働き過ぎて死んでしまった。忘れたわけではなかろう?」
エルマの伏せたまつげがわずかに揺れるのをじっとり見つめ、父は続ける。
「お前はワタシ達に借りを返さなければならない。キャロリンの社交界デビューがうまく決まれば、ワタシ達は元の形に戻ることができる。……わかっているね?」
「――はい、お父さま」
いつも通り、エルマはそう答えた。
父も妹も、何も変わらない。
だからきっと、エルマも変わってはいけないのだ。
母を殺した娘なのだから。
道を歩いている途中で、傘を忘れていることに気がついた。
小降りの雨だが、ずっとさらされているとじんわり衣服が濡れて冷たい。
家に戻る気は、あまりしなかった。
どうせエルマに与えられているのは、骨が折れ、穴が空いたもの。差しても差さなくても、さほど変わらない。
(……何を買わなければいけないのだったっけ。ああ、そう、キャロリン様のおやつ……)
だけど、そんなことに一体何の意味があるのだろう。
エルマはなんとなく、自分が身を尽くせば家族のためになる――いつかは少しだけ、また笑ってくれるようになるのではないかと、そんな淡い期待を胸にしていた。
けれど昨日、改めて思い知った。
エルマのすることに何の意味もないのだ。
努力は全部無駄。
父ゼーデンは家族のために尽くすことこそ贖罪であると繰り返し言い聞かせてきたが、キャロリンは――おそらくエルマを憎んでいる。
好かれていない自覚はあった。
それはエルマが役立たずだから、役に立つようになれば認めてもらえるのではないかと思っていた。
だが、違っていたのだ。エルマは嫌われていた。どう頑張ろうと、関係なかった。
(わたし、今まで一体、なにを)
「――マ。エルマ!」
とぼとぼ下を向いて歩いていたところ、誰かに肩をつかまれた。
よろめいたエルマがぼんやり見上げると、背の高い覆面姿が目に入る。
「どうしたんだ、一体。雨具も持たずに」
覆面。雨。
そうか、自分は約束をしていたんだ。雨が降ったら、もう一度会おうと……初めての友達と。
ようやく目の前の人が誰かを思い出すと、じわりと目頭が熱くなった。
「ユーグリークさま……」
色々言おうと思ったことがあるはずなのだが、何も出てこない。
代わりにまた、目から涙が溢れて止まらない。
以前同じようなことがあったときにはおろおろと立ち尽くしたユーグリークだったが、この時は違った。
「行こう」
さっとエルマの手をつかんだかと思うと、彼は歩き出す。
放心したままのエルマが引っ張られていくと、まもなく彼は大通りをそれて、人のいない道に入っていく。
小道を抜けて広場のような所に出ると、彼は片手を顔を隠す布の下に滑り込ませた。
ピウイ! と高く綺麗な音が鳴り響く。
(……指笛?)
エルマが首を傾げるのとほぼ同時、随分と大きい羽音が聞こえた。
何気なく上を向いて、彼女は大きく目を見開く。
純白の馬が舞い降りてきたのだ。しかもただの馬ではない。肩の辺りから翼が生えている。
(天馬……!?)
おとぎ話でしか聞いたことのない存在が目の前にいた。
「早かったな、フォルトラ。道草でも食べていたのか?」
男に首筋を愛撫されると、翼の生えた馬はぶふっと大きく鼻息を鳴らして答えている。
その背に乗せられそうになって、ようやくエルマは我に返った。
「あの、わたし……!?」
「話は後だ」
しかし有無を言わさず体を持ち上げられてしまう。
ユーグリークがエルマの後ろにひらりと飛び乗ると、天馬は地を蹴り、空中に飛び上がった。
悲鳴を上げる彼女を、力強い腕が抱きしめる。
「大丈夫、私もフォルトラも落としたりしない。少しの辛抱だ」
彼の体は大きく、温かかった。
赤くなったエルマは、今度は青くなった。
ぐんぐんと天馬は飛翔を続け、見たこともない高さまで上がっていく。
「下は見ない方がいい。着くまで目を閉じていろ」
男の低い声で言われると、無性に従ってしまう。
こんなところで暴れても、落ちるだけだと直感で理解できるからだろうか。
目を閉じていると、押し当てられた胸から鼓動が伝わってくる。
少し早い心音を聞いていると、冷え切ったはずのエルマの体まで、熱くなってしまいそうな気分だった。