12.疑問と相談
「ジェルマーヌさま……」
「他人行儀なのは嫌だ。名前の方で呼んでほしい」
当たり前のように名字の方を口にしたら、素早く訂正されてしまった。
男の銀色の目は、どうやら期待に輝いている。
エルマは消え入るように、小さく言ってみた。
「……ユーグリーク、さま?」
「うん。君はエルマ……エルマ。覚えた。エルマ」
何の変哲もない名前なのに、男が大事そうに発音すると、なんだか別の言葉に聞こえる。
嬉しそうに何度も繰り返され、エルマは思わず恥ずかしくて俯いてしまう。
その拍子、視界に映り込んだラティーの存在を思い出す。
(……そうだ。また明日、これをお父さまとキャロリンさまに見せることになるのだろうけど……)
一度ならず二度目ともなれば、さすがに詳しい説明を求められるに違いない。
偶然の出会いからラティーをもらって友達ができた……なんてことを話して、父は、妹はわかってくれるのだろうか。エルマ本人だって、いまひとつ実感がないのに。
考えているうちに、もう一つ素朴な疑問が浮かんでくる。
「ところで、お友達というのは……具体的に、何をすればいいのでしょう……?」
そもそも最初、エルマからの提案は「ラティーを持ってきてくれたら(もう一度会う)」だった。
それが、省略された後半部分を補った男の言葉では「友達になる」にちゃっかり変わっていた。
友達という言葉を知らないわけではない。親しい他人同士の関係を示すのだと、知識としては知っている。
ただ、ずっと家族に尽くしてきたエルマには、そういう存在が今まではなかった。
だから友達になる、とは何をするのかが、具体的に浮かんでこない。
が、問いかけてみた男の方も、明確なプランを持っていたわけではなさそうだった。
きょとんと目を丸くした後、首を傾げ、口元に手を当てて考え込んでいる。
「……別にその、私に友達がいないわけではないんだからな」
エルマがじっと見つめていると、もの問いたげな視線に耐えかねたのだろうか、一度そんな言葉を挟んだ。
それでエルマは逆に、(お顔のことがあるから人間関係で苦労されているんですね……)となんとなく悟ってしまう。
実際、痴話喧嘩に巻き込まれているところだって目の当たりにしているのだし。
「……とりあえず、友達になったから、色々と話をしたい」
「話、ですか……」
「その……この前みたいに、飲食店に行ったり、とか……」
なんとなく、エルマにも友達のイメージができてきた。
しかしそうなるとまた新たに思う事もある。
「話すとは……何を話せば、いいのでしょう……?」
風が二人の間を吹き抜けていった。そのまま無言の時間が過ぎた。
「考えてくるから、次に会うときまでの宿題にさせてくれ」
「はい」
ものすごく真剣な真顔で言われたので、エルマも同じように神妙に返してしまった。
「というか、次に会えるのは……いつなら時間が空いている?」
「あまり、そういうことはなくて……それと、もしお店に行くのなら、お出かけには許可を取る必要が」
「そうか。どうも時間の融通のきかない主人なんだな。……この家に住んでいるのか?」
「ええと……」
おそらく彼は、エルマを使用人と思っているのだろう。
間違ってはいないが、家族を紹介しようとすると、途端に口が重くなる。
「今度ちゃんと、挨拶した方がいいかな。昨日は呼び出しがあったし、今日は今日中にという約束だったから、この時間になってしまっているが。書状も出して、正式に……」
エルマは俯いていたが、ぎゅっとエプロンをつかみ、意を決して彼を見上げた。
「わたし……わたしの方から、一度家の人に、あなたの話をさせてください。ラティーのことも、伝えないといけませんし、外出許可も……」
この「友達」との関係は、今まで通り黙っているのが一番波風立たないのだろう。
だが、彼はエルマの無理難題に応じ、誠実に約束を果たしてくれた。
そんな人を、むげに扱いたくない。
それにどうせ、二人に問い詰められたら、黙り通す事なんてできやしない。
ならば、まずはちゃんと話してみよう。自分のことはともかく、ラティーを持ってきてくれた人のことは、そんなに酷い扱いはしないのではないか――そんな風に、エルマは考えた。
「そうか……。うまくいけばいいんだが、その……君の主人は大分気難しそうに思う。私の事を話したら、君が困るようなことにはならないか?」
「……わかりません。その可能性もあります。けれど――」
「話さないわけにもいかない、か。なるほど、ラティーをほしがっていたのはその人なんだな」
エルマが口ごもったところを、男は概ね正しく察してくれたようだ。
「わかった、まずは君の主人が何を言うか待ってみよう。どうやって返事を聞こうか……君は毎日、あの市場に買い物に行くのか?」
「毎日ではありませんが……雨が降れば、ほぼ確実に」
もちろん買い物が一番手っ取り早いのだが、その気になれば家に届けてもらう、という手段もある。
父がエルマをわざわざ外出させるのは、たぶん走り回らせる事の方が目的なのだ。
だから悪天候の日は、エルマは決まって買い物に行くことになる。
「それなら、次の雨の日、この前の店で話をしよう……いいかな?」
「……はい」
「良い結果になることを祈っているが……もし困った事になったら、王城に来てくれ。力になりたい」
「ありがとうございます」
晩ご飯には出せなかったが、またラティーをいっぱいもらえた。
それに、人生初めての友達もできた。
エルマの気持ちは大分前向きになっていた。
家族に自分から話をしてみよう、と考えられる程度には。
「……君は忙しそうだし、今日はこれで帰る。私が我慢できなくなる前に、雨が降ることを祈っている」
男が笑いを浮かべると、エルマの心にふわりと温かな風が吹いた。彼女も目尻を下げる。
「はい――雨が降ったら、会いましょう」
「うん。……エルマ。雨が降ったら、また」
男を見送り、ラティーを大事にしまって自分の寝る準備をしている最中、エルマはもう一つの「落とし物」を返しそびれていたことに気がついた。
しかし、少し前までの焦りのようなものはない。
(次に、雨の降る日……)
彼は約束を守る人だ。だからまた会えるし、その時に。
「……ユーグリークさま」
なんだかおまじないみたいだ。名前を呼ぶだけなのに、心がほんのりと温かくなる。
エルマはそっと胸を押さえ、固い床に体を横たえて、幸せな気持ちで目を閉じた。
「――お父さま。お話があるんです」