4.無の痕跡1
「エ、エルフェミア、だだ大丈夫……?」
「熱は出ていない。体の問題じゃないからそこは安心しろ」
事件の翌朝、すっかり顔色をなくして縮こまっているエルマの前に、ファントマジット家の従兄弟二人が揃っていた。
長男ベレルバーンは眼鏡の下にいつも通りの渋面を浮かべ、次男スファルバーンは心配そうにおろおろしている。
ベレルバーンは昨晩のエルマの様子を見ているが、スファルバーンはまだ事情を知らない。とはいえこの兄弟の反応の差は、情報の有無より、性格の差に依る所の方がたぶん大きいのだが。
「に、兄さん……何かし、知っているの……?」
「昨晩、エルフェミアは悪夢にうなされていたようだ。寝台から落ちるほどの嫌な夢を見たらしい。で……まあ、そのときに、どうやら指輪がなくなっていることに気がついたようだ」
「そ、それは……まさか、こ、こ、婚約指輪、なの……?」
「他に何があるんだ。だからエルフェミアもこうなっている」
「う、うう……」
長男が簡潔に状況を説明すると、次男は口ごもった。元々吃音癖があっておしゃべりが得意でないスファルバーンだが、加えて話題が話題なだけに何も言えなくなったのだろう。
エルマが紛失したのは、ユーグリークと出会った日に渡されてから、文字通り肌身離さず身につけていた婚約指輪だ。しかも公爵家が準備した特別製、二つとない逸品――ただの装飾品を落としたのとは話が全く異なる。
「わたし、婚約破棄されるかも……」
「それはない」
「そそそれは、な、ない、と、思う、よ……?」
蒼白になっているエルマに、従兄弟達それぞれが素早く否定の言葉を返す。
「お前、閣下の結婚願望を舐めすぎじゃないのか? あの閣下だぞ? あり得るとしたら、もっとすさまじい指輪を用意してくるか、結婚式を前倒しにする口実にしてくるかのどっちかだ。この程度で中止はあり得ないから、余計な気を回そうとするな。何なら結婚式が破談になっても同居は覆らないはずだ」
「えっと……エ、エルフェミアが悪くないことは、か、閣下もわかっているはず、だし。そこは、し、心配ない……と思う、よ……?」
二人に慰められても、エルマの気持ちが上向くことはない。
従兄弟達の知らない問題があるのだ。
一つ。侵入者の存在。
エルマは結局、駆けつけたベレルバーンに、自分の身に起きたことを正確に説明できなかったのだ。
侵入者の存在を口にしようとすると、その部分はまるで言葉にならなかった。喉元を指さされた時、息はできても声が全く出てこなくなったのと同様の症状に見舞われたのだ。
婚約指輪は、通常寝る前は首から提げるようにしていた。昨日も寝支度を整えている間に、それで確かめた記憶がある。
とすると時系列上、かの人物がエルマから指輪を取り上げ、持って行ってしまったと考えるのが自然――いやそれしかなかろう。
急にやってきておかしな体験をさせた上、前触れもなく指輪と共に消え去った。その上魔法で言論統制も強いていったらしい。
結果として、ベレルバーンは指輪の不在という事実と、泣きそうな顔をしていた従妹の態度という要素から、「悪夢でうなされて飛び起きた時、指輪の紛失に気がついた」という解釈をしたようだ。
従兄弟達は、不注意による紛失ならエルマに咎はない、だから責められる心配をしなくていい、という理屈なのだろう。
違うのだ、ただの紛失ではなく、強奪されてしまったのだ。
しかしこの危機感が伝えられない。
もう一つ。あの指輪には、位置探知機能が備わっている。
元々、幼きユーグリーク=ジェルマーヌの誘拐対策に作られた指輪なのだ。
長じた彼は、それを知り合って間もない娘にかなり強引に押しつけ、親睦を深めることに利用した。
無事婚約が成立した後は、特に怪しげな使われ方をされることもなく、平和にエルマの安全を保証するものとして保管され続けていた。
この指輪の特性が一つ目の問題と合わさることによって、更に深刻さを深めている。
ユーグリークはエルマが持っているはずの指輪の位置を探知できる。
ということは、エルマが今現在指輪を持っていないことは、黙っていても必ずバレる。
しかし更なる問題は、ユーグリークが今の指輪のありかを探そうとした時にこそ発生する。
“氷冷の魔性”――ユーグリークの二つ名は、他人に容易には晒せない素顔の事情と、誰にも追随を許さない氷魔法の達人であることを意味している。エルマもその実力を目にする機会があって、人間最強と名高い腕を疑ったことはない。
だが、その彼をもってしても、エルマの寝室に押し入った侵入者を下すのは容易でないように思えた。
前触れなく現われ、消える。言葉、あるいは声を制限する。奇妙な幻覚を見せる――どれか一つだけとっても、困難かつ危険な魔法のはずだ。
それをああもたやすく無造作に使いこなすとは、どう考えてもただものではない。
あんな得体が知れない危険人物とユーグリークが、もしもばったり出会うようなことがなったら……想像だけでも、ぞっと寒気が走る。
その意味では、侵入者の存在を口にできない現状はかえって都合がいいとも言えるかもしれない。
(ああ、危険人物がいることを伝えられないのも困るけど、指輪を取られたと言ってしまえば、それはそれでユーグリークさまはさっさと取り返しに行ってしまいそうだし……)
頭を抱えていたエルマは、なんとなく胸騒ぎがして顔を上げた。
すると直後、寝室がノックされ、魔法伯夫人が顔をのぞかせる。
「エルフェミア? ユーグリーク様がいらっしゃったわよ? なんだかひどく急いでいらっしゃるようで――」
(あああああ!)
――作戦を練るどころか心の準備すらできていない間に、本人が押しかけてきてしまったようだった。