3.花嫁の試練 後編
エルマが事態を理解する前に、侵入者は部屋の中に立っていた。あるいはエルマが声をかけた時には、もうそこにいたのかもしれない。
気がつくのが遅れたのは、闇の中に溶けるような色をしていたせいだろう。
髪はおそらく黒、肌もどうやら浅黒く、着ているものも暗い色合い――そのせいで、動きがないと輪郭すらとらえがたい。
背はそこまで高くなさそうだが、奇妙な威圧感を感じる。それは暗闇の中に二つだけ輝く、不気味な赤い瞳のせいかもしれない。
じっと視線を注ぎ込まれたエルマは息をのんだ。
「しゃべる、久しい。わかる?」
小柄な侵入者の声は独特だった。ぱっと聞いた響きは高くて幼いが、余韻には老いを感じさせる。だが何より奇妙なのはしゃべり方だ。異国で覚えたての言葉を試そうとしている様に似ている。
エルマは混乱したまま、呆然と相手を見つめるしかなかった。最初に叫ぶ機会を逃したのが、なおさらよくなかったかもしれない。想定外の出来事に遭遇すると、つい固まってしまうのだ。
(想定外の事態に出くわしたときは、まず微笑みを浮かべて――違うわ、お祖母さまの言葉、この状況には当てはまらない。わたし、どうしたら――誰か、呼ばないと――)
混乱しつつも思考を巡らせ始めた途端、不穏な気配を感じ取ったらしい相手が再び言葉を口にした。
「さわぐない。めんどう」
やはり言葉遣いが根本的におかしい。異国人というより、もはや人間を模倣しようとしている別の何かすら思わせ、ますますエルマを怯えさせる。
侵入者は身じろぎし、おそらくエルマの喉を指さした。眉をひそめたエルマは何気なく口を開こうとし、そこで異変に気がつく。
(声が、出ない――!)
息はできる。だが声を出そうとすると、突っかかったようになって通らない。魔法で封じられたようだ。
怪しく輝く眼光に射すくめられると、息まで止まりそうな気持ちになる。
「われわれ、争うない。自分、たすけくる」
首元を押さえたまま震えるエルマに、侵入者は静かに、淡々と声をかける。
(害意はないってこと……? でも……)
状況からすれば、助けどころか襲われている。ますますエルマが困惑を深めると、赤い双眸がすっと細められた。
「たすけ、あなたちがう。あなた未熟。あなた下手。あなた遠い。ちがう、ちがう」
たどたどしい言葉だが、持てる語彙を尽くして無能っぷりを罵られているんだろうな、ということだけは伝わった。
最近褒められる機会ばかりだったエルマは、久々の感覚に落ち込みつつ、ちょっとだけ懐かしくも感じてしまう。
(……それにしても、こんなに外見にしろしゃべり方にしろ特徴的な人、一度でも目にしていれば絶対に記憶に残るはず。でもわたし、ちっとも覚えがないわ……)
一方で相手の口ぶりからは、どうやらある程度エルマのことを知っていることがうかがえる。
確かにエルマはここ数ヶ月、未来のジェルマーヌ公爵夫人、貴族の一員としての振る舞いを心がけてきた。
貴族は顔を売るのも仕事の一つ、相手はこちらを知っているがこちらは知らないということも往々にしてあり得る。
だが、では社交にいそしんでいる姿をどこかで見られたのかと推測しようとすると、それもしっくり来ない。
貴族社会にあまり縁のなさそうな人物だ。というか、全体的にありとあらゆる個性が浮世離れしている。
(誰なの? どうしてここに? わたしに何の用? 目的はなに? わからないことだらけだわ。でも、そうだ……勝手に部屋に入ってこられて、声まで封じられている。一方で、確かに今のところ、それ以上傷つけられてはいない。まずは身の安全の確保……相手を刺激しすぎないように……)
ようやく思考がまとまりかけてきた頃、またもエルマは不意をつかれた。
「――でも、足りないあなた、成長する。そのための自分」
部屋の中とはいえ、ベッドにいるエルマからは少し離れた場所に立っていたはずの侵入者が、いつの間にか音もなく触れられる距離まで近づいている。
抵抗する間もなく、手を取られた。
痛みを感じるほど強く握られた手から、何かが流れ込んでくる。
――全身が沸騰しているかのように熱くなるのを感じた。
心臓が心配になるほどの早鐘を打ち、頭がくらくらする――。
(――この、感覚は!)
これももはや懐かしさすら覚える過去の出来事だ。
初めてユーグリークと目を合わせた瞬間に味わった、あの、自分が自分でないものに塗り替えられていくかのような、あるいはただ、自分が余計なうわべを何もかも取り去って、忘れていた本当の自分を思い出すかのような――。
鮮烈かつ急激すぎる変化に、本能が恐怖する。エルマは手を引っ込めようとしたが、相手は逃がすまいとますます力を込めた。
「だめ! こばむない――ふるいともだち!」
目と目が合う。
ちかちかと不思議な瞬きを見た。
明滅の合間に映り込むのは、どこかの景色か、誰かの意識か――それともいつかの思い出か。
光が差していた。いつも輝いていた。その人の周りはいつもまぶしかった。
『ともだち……?』
『そう。互いに対等で、共に時間を共有できる存在のこと』
『じぶん。あなた。ともだち?』
『さあ? でも私達が知り合い以上なら、きっと友人とでも呼ぶべきなのでしょう』
問いかければ答えを返してくれた。だから言葉を覚えた。応答がある。それは快いことだった。
覚えている。忘れられるはずがない。限りなく近いひと。
風になびく銀色の髪。意外と質素なローブ。少しかすれた耳に残る良い声。
――ああ、でも、ここには一つ足りない。
彼女に顔がない。ともだちの、顔だけがずっと……。
「――ミア。エルフェミア、しっかりしろ!」
誰かが頬をぺしぺしと叩く感触で、エルマは重たい瞼を上げた。視界に見覚えのある眼鏡の青年が映り込む。
「ベレルバーンさま……?」
「様子が変だぞ。何があった」
しかめっ面に年期入りの眉の皺、おまけにこの冷淡に感じるつっけんどんな態度――どうやら従兄で間違いない。
ゆっくりと体を起こしたエルマは辺りを見回し、場所は魔法伯邸の自室、ベッドでの目覚めであると知る。いや、正確には、ベッド脇の床で倒れていたらしい。
「わたし……どうして……?」
「だからそれはこっちが聞きたい。目が冴えたから適当に晩酌していたら、変な物音が聞こえた。で、念のため見に来たら、ベッドから落ちてた。……何だったんだ?」
怪訝そうな顔をされ、エルマは重たい頭を押さえる。
寝ようとしてベッドに入ろうとしたことまでは思い出せる。その後が……そうだ、見慣れぬ侵入者に襲われる、変な夢を見た。
「ええと、なんだか奇妙な夢を見て……わたし、うなされでも――」
重たい頭を押さえている間に違和感を覚えた。エルマは無言で、顔の前に手を持ってくる。
「悪夢を見てうなされたってことか? それにしても随分と――おい、エルフェミア?」
ベレルバーンが話しかけてくるのだが、エルマは返事をする余裕もなく、自分の両手を凝視した。それから次は猛然と胸元を探り始め、次いで自分の周囲、ベッド周りを見回す。
「何だよ、どうかしたのか――」
「ベレルバーンさま。立っていただけますか」
「は? ああ、まあ……何なんだよ」
平常時であれば内気な従妹の異様な雰囲気に、従兄は面食らった様子で、大人しく従う。
無言で周りを見回したエルマは、部屋を歩いて行くと明かりをつけ、それから台の上や引き出し、箱の中をあさり出す。
「おい……寝ている間に何か物を落としでもしたのか? 手伝ってやるから、何を探しているのか言ってみろ。なんだか……お前らしくないぞ」
さすがに行動意図に見当がついたらしい従兄が声をかけると、エルマはピタリと動きを止めた。
振り返った彼女の両目には今にもこぼれ落ちんばかりの涙がたたえられ、ベレルバーンがぎょっとした顔になる。
「おい待てやめろ、ボクは今回まだ泣かせるようなこと――」
「……夢じゃ、なかったんです」
「は? え? 何が!?」
「だって、ないんです……どこにも……」
大抵は薬指。ペンダントにして持ち歩くか、ポシェットのような小物入れにしまっておくこともある。思い出深い一品であり、絆の証でもあった。
ユーグリークからもらった、婚約指輪――それがあの侵入者が確かにここにいたことを示すかのように、忽然と姿を消してしまったのだった。