11.友達と名前
月明かりに淡く照らされ、庭の草木がさざめく。
手の中にはかご一杯のラティー。今日――昨日の時計が十二時を告げる前に届けられた。すべて注文通りだ。
「……それはどうしたんだ? たんこぶか?」
男が額を示して聞くが、正直それどころではない。
エルマはかごを片手で持ち直し、もう片方の手で思いっきり自分の頬を引っ張った。
なぜか痛い。
もう一度引っ張った。
じんじんする。
「……夢ではないぞ?」
頬を押さえて無言でいる彼女の様子に、男がぽそっとつぶやく。
エルマははっと口を開いた。
驚いて、慌てて、嬉しくて。
(だってまさか本当に……こんなことが)
「もちろん作り物でもないし、粗悪品でもない。何なら食べてみてくれ」
うまく言葉が出てこないでいるうちに、男はいそいそハンカチを取り出して手をぬぐい、大量のラティーのうちの一つを取る。
美しい手が美しく果皮をむき――とは、残念ながらいかなかった。
彼はどうも、率直に言って不器用だ。たぶん、こういったことに慣れているエルマがやった方がずっと早いし、綺麗に仕上がる。
しかしあふれ出す真剣なオーラを前にしては、「そのぐらいで」とか「かわりましょうか?」と申し出るのもぶしつけなように思える。
エルマはそっと、終わるまで見守った。
「…………」
手も、皮の残骸も、残された実も、べたべたででこぼこだ。
本人もできばえが微妙なのはわかっているのだろう、しょんぼりしている。
「ありがとうございます、いただきます」
しかしエルマは、そういったことには躊躇しなかった。
残飯や腐った物、時に泥水すら口にしてきた者には、充分過ぎるほどのごちそうだ。
彼女が自分の手を出すと、男は一拍間を置いてから、ラティーをのせてくる。
口の中に入れた果物は、昨日よりもさらに甘く感じた。
じわ、と目頭が熱くなる。エルマは慌てて目元を拭ったが、男の方もかなりぎょっとしたらしい。
「どっ、どうした? そんなにまずかったのか? それか怪我が痛むのか!?」
「違います、あの……うれしくて。それにこれは、大したことありませんから……」
額を押さえ目を押さえ、エルマは答えようとする。
悲しいわけではないのに、一度ほろりとこぼれ落ちると涙が止まらない。
こらえようとするとむしろ酷くなってしまって、おろおろあわあわさせていることが申し訳なかった。
「……その。すまない、慣れていなくて。うまくできなかったと思うんだが」
「でも本当に、おいしくて。きっと今まで食べた、どんなものよりも……」
せっかくのラティーを汚すわけにはいかない、と慌てると、察したらしい男が一度かごを受け取ってくれる。
それでエルマは両手で顔を覆うことができた。
――エル――。お母さまのお手伝いをしてくれる?
――エル――。こっちにおいで。今日はお父さまが作ったんだ。食べてごらん……。
涙と一緒に、あふれ出してくる、遠い、遠い昔。
幻のような幸せの記憶が、溶けて流れていくようで。
「……大丈夫か?」
「すみません……落ち着きました」
しばらくの間そのままでいると、やがて感情の渦は収まっていった。
エルマはごしごしと目元を拭い、改めて男に向き直ると、深く頭を下げた。
「ラティーを持ってきていただき、ありがとうございました。約束を……守らないと、いけませんね」
ぎこちなく微笑みを浮かべると、男はしどろもどろに目を泳がせているようだ。
「その、なんだ。別にこう、無理にとは」
「とんでもございません! 今日のお茶も、既にいただいてしまっています。何か、お返ししませんと……」
「いや、あの、な。私も嫌がる女性に無体を強いるつもりは、けして」
「わたし……いやがっては、いません。ただ……その。驚きは、たくさんありますけれど」
「そ……そうなのか? すまない、人の感情に疎くて。本当にわからないから、駄目なときははっきり駄目と言ってほしい……」
彼が急速な弱腰になったのは、エルマが突然泣き出したせいだろう。
しかしエルマとしては、こちらの希望を叶えてもらった上に醜態をさらし、困らせてしまったのだ。これ以上の不義理はできない。
彼女はもじもじ、手をすりあわせた。
「あの……それで。ええと……お友達、でしたっけ……?」
「う、うん……ああ、でも、別にな? ただの知り合いでも、私は……」
「友達にしろ、知り合いにしろ。わたしたちにはきっと、最初にしなければいけないことがありますね」
きょとんとした相手に向かって、エルマはそっと、手を差し出した。
「初めまして。わたしは、エルマ=タルコーザと申します。ラティーをくださった親切な方……あなたのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
男は固まっていたが、はっとなって握手に応じようとする。
しかし出しかけた手を一度引っ込め、さっと辺りを見回した。
おんぼろ屋敷は夜の眠りに包まれていて、ここには二人しかいない。
彼はそっと、布をめくり上げた。
銀色の目で直接、エルマを見つめる。
エルマもじっと彼を見上げ、微笑んでみせた。
笑う機会は少ないから、男の目に映る自分の顔はかなり引きつっているようにも見える。
しかしエルマは微笑んだまま、じっとそのまま待ち続けた。
一度近づいた指先が、触れて離れた。
エルマもこうしたことには慣れていないが、相手もそうなのだろう。
彼女の方から促すように再度手を開くと、ようやく自分の手を重ねてきた。
やはり大きくて、たくましい。
「――ユーグリーク」
かすれた低い声が、言葉をつむぐ。
エルマが手元から目を上げると、息を吸い、改めて男は名乗った。
「ユーグリーク=ジェルマーヌだ」