番外編 口づけの場所 後編
ユーグリークは再び口の端を上げていた。てっきりもう終わったものと思っていたエルマは慌てる。
「ユーグリークさま! もう答えたはずです、わたし……!」
「そうかな?」
「そうです!」
「……本当に?」
じっと覗き込んでくる視線からしばらくは目を逸らしていたエルマだが、そのうち根負けした。
目が合ってしまうと、もう駄目だ。葛藤する心を裏切って、正直な口はすぐ開いてしまう。
「で、では……額で……」
苦し紛れに答えた部位で満ち足りるわけがない。エルマも、ユーグリークも。
けれど決定的な解に辿り着くには、まだ羞恥心が邪魔をする。
それに、嘘を答えているわけではないのだ。頬でも、額でも、こそばゆく嬉しい。
ユーグリークはエルマの言う通り、そっと憧れを示す場所に触れた。そしてすぐ、また問いかける。
「次は?」
「もう……!」
「君が焦らすからいけないんだぞ」
魔性の男は熱をはらんだ声で囁き、今度はエルマの手を――腕を取って、その場所に唇を押し当てた。それから肩の方へ――首元に顔を埋める。
エルマは赤くなり、あわあわと口をわななかせた。
腕と首は、説明によれば確か“欲望”の部位だったはずだ。“懇願”よりもさらにダイレクトなお誘いである。
「――ひゃ」
かぷ、と首筋を甘噛みされる感触に、思わず声が漏れた。急所近くへの接触には体が強ばったが、戯れられているだけだと知ると力が抜けていく。
ユーグリークの頭に手を伸ばしたが、引き剥がそうとしているのか、もっと強くと押しつけてしまいたいのか、自分でもわからない。なんとなく触れ、そのままぎこちなく銀の髪を撫でていると、彼が悩ましげなため息を吐いてまたドキリとする。
「ユーグリークさま?」
「……もっと」
手を止めたエルマだったが、ねだられているのだとわかると、もう一度頭を撫でた。ユーグリークはじっとしているが、気持ちよさそうに目を閉じているのだろうと想像できる。
……なんだかフォルトラにブラシをかけている時を思い出す。ユーグリークの銀色の姿や鋭い目は時折真冬のオオカミを連想させるが、これでは大きな飼い犬である。
思わず忍び笑いを漏らすと、ユーグリークが体を離し、不思議そうな顔をした。
「……何?」
「オオカミさん」
「何だって?」
「なんでもありません」
じゃれ合うように囁きを交わしていると、自然と視線が絡んだ。エルマは再び、目を逸らしてしまう。
「――エルマ」
「どうしても言わないと、だめ……?」
「うん。……俺に甘えるのは嫌か?」
「……ずるい人」
自分から甘える態度を見せてこの言葉だ。今度こそ断れない――と、羞恥心への言い訳ができる。エルマは俯いたまま、小さく口にした。
「して。……唇に」
きらきらと、夜の闇の中で菫色が輝く。ユーグリークは頷くと、恋人を敷き布の上に押し倒した。覆い被さってくる気配に、エルマはうっとりと目を閉じた――。
……はずなのだが、待ってみても、その時がやってこない。
あれ? と思ったエルマが薄目を開けると、ユーグリークは両手をつき、エルマの上にいた。だが、なんだかうなだれて、脱力しているように見える。
「ユーグリークさま――?」
どうかしたのか、と問いかけようとしたエルマは、直後あっと口を開けた。視界に大きな白い顔が映り込み、ふんっ! と大きな鼻息を鳴らしたのである。
すっかりお互いに夢中になっていたためだろうか。大人しくその辺で待っていたはずの天馬が、いつの間にか接近してきていたらしい。エルマも気がつかなかったが、この感じだとユーグリークも完全に不意打ちを食らったのだろう。
天馬はたっぷり親愛の情を込め、はぐはぐユーグリークの髪を食んでいる。
「フォルトラ、違う、そうじゃない。やめろ、いいから――」
ユーグリークが追い払おうとすると、天馬はぶー! と不満そうに鳴き、ますますべろべろと顔を舐め回した。「ご主人だって舐め合ってたのに、なんで俺は駄目なんだ!」と言っているように見える。たぶん彼には、人間達の触れ合いが、馬同士の毛繕いにでも見えているのだろう。
目を丸くしていたエルマだが、吹き出してしまい、ユーグリークの下から這い出て体を起こす。
「そうね、フォルトラ。いつもあなたが挨拶してくれるのに、断ってばかりだったものね。わたし達だけは、ずるいわね……」
エルマが手を伸ばすと、天馬はぺろぺろと掌を舐めた。それから更に首を伸ばし、髪をもしゃっとしようとしたところでユーグリークに捕まる。
「よせって。エルマの髪がぐしゃぐしゃになったらどうする」
そう言った彼は、愛馬に丹念な毛繕いを施されたためか、寝癖のように髪の一部が跳ねていた。
ユーグリークはむすっとした顔をしていたが、エルマが笑うのを見ると、まあいいか、と言うように眉尻を下ろす。
その後、二人でフォルトラを撫でてやったり、また星空を見上げている間に、ユーグリークの帰る時間がやってきた。
「じゃあ、エルマ。また今度……」
髪をひとすくい取って口づけのポーズを取り、そのまま去ろうとする彼を、エルマの手が引き留めた。
「……エルマ?」
「わたし、ちゃんと言いましたよ?」
魔性の男はきょとんとしたが、すぐ思い出したらしく、エルマの肩に手を置いた。――が、緩やかに頭を振る。
「ユーグリークさま?」
「今日はもう駄目だ。さっき、フォルトラにでろでろにされた。この顔でエルマに触れられない」
しゅん、とうなだれるユーグリークの様子に、今度はエルマが目を見張る。すぐに虚をつかれた表情は満面の笑みに変わり、婚約者に抱きついた。
「では、また今度にしてくださいね。せっかくわたしが勇気を出したのですから……ね?」
「うん。次は邪魔されないように手を打っておく」
「怒らないであげてくださいね。フォルトラは良い子なだけなんですから。どこかの誰かさんと違って」
恨めしそうに睨まれた天馬は、つぶらな瞳をぱちぱち瞬かせている。邪心のない様子に、エルマが笑い、やがてつられるようにユーグリークも笑った。
天馬は今日もしっかり仕事をしたと誇らしげに鼻を鳴らし、星空の中に白い翼を広げて飛び立った。