番外編 口づけの場所 中編
ユーグリークは相変わらずニコニコしている。
エルマはいつの間にか、さりげなく両手を取られていた。このポーズも危険だ。優しく退路を塞いで来るときの常套手段である。
エルマはたらり、と冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。恐る恐る、意図を探ってみる。
「……場所、ですか?」
「そう。エルマはどこにキスしてほしい?」
これはあれだ。単純に、純粋に体の部位としてどの場所が好ましいかという観点と、先ほどユーグリークが色々並べた意味の中でどれに最も重きを置くのかという観点、たぶんどちらの回答も求められている。
そしてどちらにおいてもたぶん――望まれている、あるいは想定されている答えが一択である。
あの目は「エルマは俺のことが好きなんだから、当然唇に欲しいって言うんだよな?」と語っている。
下心がここまで露骨だと、一周回って笑顔が純粋だ。
魔性の男の顔は常に眩しいが、今この時はいつもより更に三割増しぐらいで輝いて見える。
(丁寧な前振りまでして……この人は一体、わたしに何を言わせようとしているの!?)
いや、別にどうということはない。簡単だ。エルマが今ここで一言「それはもちろん、唇です」と言えば、世界は平和になる。一応頭で、そういう最適解を理解はできている。
が、現実のエルマはわなないたまま、なかなか言葉を出せずにいる。
エルマはユーグリークを愛している。これは事実である。
二人は想いを通じ合わせた恋人同士である。これも事実である。
もう結構な数唇を触れ合わせてきている。これも確かに事実である。
しかし彼はわかっていない。
ではエルマからいつでもユーグリークに対してフルオープンな態度でいられるかと言えば、それは全く別問題なのだ。
いやむしろ、わかっているからこそ、あえて口を割らせようとしている。なおのことたちが悪い。
「わ、悪い人……!」
「“恥ずかしい”のは“駄目”じゃないんだろう? 今は他に人目もないし」
実に困ったことに、魔性の男は口の端をつり上げる悪人面も世界一美しかった。むしろ似合う。ついうっかりぽーっと口を開きかけたエルマだが、すぐに我を取り戻した。
(だって、食べ物やお衣装の好みを答えるのとは、やっぱり全然違うのよ……!? キスはどこでも嬉しいけれど、でも、でも……!)
あちらから来る時は、さほど意識せずに済む――というより躊躇している間がない。
彼は怖くない、受け入れて大丈夫なのだと、心も体も学習した。そしてこちらから寄りかかっても、受け入れてくれる男なのだということも知っている。
だが。だがしかし。
エルマは基本的に内気で受け身な方の人間なのだ。自分からグイグイ行くのは、得意ではない。元の性格が大人しい方で、タルコーザ家の環境が更にその傾向を強くした。
エルフェミア=ファントマジットとなってもまだ、「自分なんかがおこがましい」という意識がやっぱり最初に来てしまう。
「忠告はしたぞ。君が俺を好きで諦められないと言ってくれた時に」
「う、うう……!」
「エルマはいついかなる時も、毅然とした淑女でありたいんだろう? まあ、ちょっとした練習みたいなものだと思って気楽に答えてくれ」
彼はウインクして見せる。
エルマはもはやうめき声も上げることができなくなった。今し方心臓が爆発しなかったのが不思議なぐらいである。体の熱と動悸をなだめるのに必死で、表情を取り繕う余力すらないのだ。
(こ、この人……いつも通りと思って油断した……いつもと違う、本気の誘惑だわ……!)
魔性の男は世にも稀な美貌で他者を虜にし、目が合った相手を魅了する。正気を奪い、尋常でない行動を取らせるのだそうだ。
エルマは彼の顔に、目力に耐性がある人間である。だからユーグリークは安心してエルマに近づき、戯れを囁くこともできる。
そして最近の彼は、更に大胆にエルマに甘えるようになってきていた。
普通の人間であれば、こんな風にユーグリークに促されたら、とっくに我を失って言いなりになっているのだろう。エルマだから、目をぐるぐる回して真っ赤になりつつも、己の中の葛藤と戦い続けることができるのだ。
(で、でもそれならなおさらここで屈するわけには……ユーグリークさまは自分を保つわたしだからこそ、信頼なさって下さっているのだから――)
「慎み深いエルマは素敵だし、大胆なエルマは可愛いよ」
(あああああ!)
エルマがなおも心中で絶叫していると、彼は取った手の指――指輪の嵌まった薬指に口づけ、そして手の甲にもう一度軽く触れる。
「手の甲へは尊敬のキス。掌へは懇願のキス――」
「ほ、頬。頬で! 頬がいいです!!」
そのまま歌うように口ずさみながら、全部の場所を再制覇されない勢いだった。
エルマは咄嗟に、最も安全そうな“満足”を指定する。実際もうお腹いっぱいである。
ユーグリークは一瞬動きを止めるが、特に不満を述べることもなく、素直に言われた通りの場所に軽く口づけた。
エルマがほっと一息吐いたのも束の間――であった。
「それで?」
「…………えっ?」
「この程度で“満足”なのか? エルマ」