番外編 口づけの場所 前編
ある晩、いつも通りこっそりと、ユーグリークがフォルトラに乗ってエルマに会いに来た時のことである。
今回の二人は、ちょうど雲一つない天気ということで、満天の星空を楽しむために仲良く屋根に並んでいた。ユーグリークのくれたケープは、まだ冬の名残が強い夜の屋外でもしっかりと体を守ってくれる。更に、ユーグリークが敷き布を持ってきてくれたから、腰掛けているお尻の冷え対策も万全であった。
少し離れた場所では、フォルトラが立ったままうとうとしている。お利口な彼は、馬具がついている間は眠たくなっても寝っ転がらないのだそうだ。
ちなみに馬同様、天馬も立ったまま眠れるらしい。昼でもたまにエルマが撫でているとそのまま目を閉じていた時があったので、器用なものだと感心してしまった。
ユーグリークとエルマはしばらく、特に何を話すでもなく空を見上げている。
元々時間と場所の都合上、あまり騒ぎ立てることもできない。けれど無理に会話を続ける必要もなかった。ただ一緒にいるだけで満足なのだ。
やがて、ユーグリークの手が何かを探すように動き、エルマの指に触れる。手が重なり、指が絡まり、どちらからともなくくすくす忍び笑いを漏らしてゆっくり顔を上げた。
ユーグリークはそのままエルマの手を持ち上げ、そこで何か思い出したように口を開く。
「エルマ、こんな話を聞いたことがあるか? 口づけの場所で意味が変わるんだ」
「口づけの場所?」
エルマはまた何か、自分が知らない貴族の常識のようなものなのだろうか、と思って首を傾げる。
「そう。誰が言い出したのか、定かではないが――例えば、手の甲へは尊敬のキス、と言われている」
ユーグリークはエルマの手に恭しく唇を触れた。社交界でよく男性が女性にする挨拶の形だ。挨拶の時は手を取って口元に近づけるだけで、実際には触れないこともある。
「あなたを尊敬しています――という意味だから、挨拶にも使えるということですか?」
「そういうことになるらしいな」
「それは、男性から女性だけなのですか?」
「……必ずしもそうではないと思うが。でも、少なくともキスの場所のルールを決めた人間は、男から女に贈ることを前提で考えていそうだ」
「では、わたしもユーグリークさまを尊敬してみましょうか?」
「……悪くないな」
エルマはユーグリークに取られた手を自分の方に引き寄せて笑った。ユーグリークはエルマの好きにさせ、自分の頬にユーグリークの手の掌を押し当てて温もりを楽しむのを眺めている。
「そう、ちょうどこの向き……掌だとまた違う意味になる。掌へは、懇願のキス」
「ああ……だから女性が挨拶で手を出すとき、掌を上向きにすることは失礼に当たるのでしょうか。男性に懇願しろと要求することになるから……」
「そうだな」
エルマはジェルマーヌ邸、あるいはファントマジット邸で貴族の基本ルールをあれこれ学んだが、その時は確か、ただ「手を上向きに出し、男性に挨拶をためらわせないことが淑女の嗜み」と習ったはずだ。
場所で意味が変わる、という話は今ユーグリークから初めて聞いている。
ちなみに公爵家に来た最初の頃などは、エルマの手にはまだあかぎれなどが残っていた。
貴婦人は本来、手が汚れたり傷つけられることがあってはならず、当然そのような汚い手を出すことは、相手にとっての失礼に当たってしまう。
とは言え、いつでもキスされて恥ずかしくない手を常に保つべき――というのは相当保守的な考え方で、手が荒れてしまっている時は手袋を忘れなければいいのだ、とも教わった。
格が高く裕福な貴族であれば完璧な貴族らしさを保てるのだろうが、領地経営の状況によっては領主一家もまた労働しなければならない所もある。
また、社交界には貴族と縁を結びたい、貴族以外の人間とて出入りする。
――というわけで、エルマ様が困らないように、坊ちゃまがこれだけ用意してくださいましたからね!
手の挨拶の説明後、侍女はそう言い、ずらっと並んだ手袋の群れ(明らかに全部新品)を見せた――そんな思い出がちょっと蘇り、エルマは思わず苦笑してしまう。
ユーグリークはエルマに渡す物に迷うとすぐ、「とりあえず一通り揃えておけばどれかは気に入るかもしれない」という思考になる人間である。
エルマの性格を知った最近はもう少し絞ってくれるようになったが、それでもかなり惜しみなく贈り物をしてくれるので、いつかこの大量消費に慣れてしまいそうな自分がちょっと怖い。何なら既に、ジェルマーヌ邸にいた時より驚かなくなってきている――。
と、意識が過去へ向かっていて気がつかなかったが、ユーグリークがいつの間にかエルマの手をひっくり返し、掌に何度もキスを繰り返している。
先ほどの彼の説明を思い出し、エルマは少し赤くなった。
「……今、何か……わたしに望んでいらっしゃいますか?」
「俺はいつだって、君の全部が欲しいって思っているよ」
「もう……少し、前のことを思い出していただけですよ」
「今の俺は?」
どうやら、意識を逸らしていたことに対する不満を述べられているらしい。
けれどエルマの目が自分に返ってくると、彼は満足したようだ。手を離し、今度は顔を近づける。
額の髪を上げられ、触れられる感触。
「額へは友愛のキスだ」
「そういえばわたし達、最初は友だちから始めようって話したんでしたね」
「これは頬。満足感」
ユーグリークはその後もじゃれるように、瞼や首にも軽いキスをし、その場所の意味を短く説明する。
最後に見つめ合ってから唇を合わせ、「唇は恋情だ」と彼は結んだ。
幸せそうに目を細めるエルマに、しかしユーグリークが悪戯っぽい笑みを浮かべる。
――エルマの勘と経験が告げている。この顔の彼は少し危ない。
「さて、エルマ。それじゃあ、今までの中で……君はどの場所のキスが、一番好きなんだ?」