40.持つ者、持たざる者 中編
ベレルバーンは申し出を受け入れたらしい。淡々と予定を告げた魔法伯は、いつもと特に変わりなく家を出て行った。スファルバーンはさすがに常より緊張している面持ちだったが、無言で父に付き従う。祖母とエルマも騒ぎ立てることもなく、日々と同じように送り出した。
見た目は普段と変わらぬ振る舞いを心がけていても、エルマは内心かなり気もそぞろだった。
幸か不幸か出かける予定のない日だったため、手すさびに本や刺繍用の道具を広げ、ぼんやりと考え事をして過ごす。
拍子抜けするほどあっさりこちらの提案に応じたということは、ベレルバーンは少なくとも、父や弟とは対話の意思があるということなのだろう。家を出て行った時の様子から、もしや提案自体突っぱねられるのでは……という心配は、ひとまず杞憂に終わったらしい。
とは言え、社交界デビューの日も、敵対的な態度は継続していた。しかもあの日は、彼が従っている第二王子ガリュースに、ユーグリークが結構キツく当たったような記憶がある。
先にこちらを困らせたのは王子の方とは言え、彼の取り巻き達はとても面白いとは感じられない状況だっただろう。あれではエルマをますます嫌いになることはあっても、その逆はないのではないか。
(家族はともかく、あの泥棒猫と言葉を交わす必要がない――なんて言われた方が、かえって気が楽かも。話したい、と改めて言われたとしても……あの人と、何を話せば?)
はーっ、と大きく息を吐いたエルマは、視界に入ったふわふわの白い塊に目を留める。フォルトラのぬいぐるみだった。縫いかけの小物を一度置き、ミニチュア天馬を手に取る。くりんとした黒い目に見つめられると、作ることになったきっかけ――きらきらした幼子の青い目が、浮かんでくるようだった。
(そうだ……ルビーニアさまの時、子爵さまのことが全然わからなくて、途方に暮れて。でも、スファルさまが、伯父さまが、お祖母さまが手助けしてくれた。それにわたしも、ルビーニアさまがどうしたら笑ってくれるのか、考えて、考え続けて……)
けれど、ルビーニアの時は、最初の頃から幼子は好意を示してくれたし、エルマも彼女と仲良くなりたいと思った。
ベレルバーンは真逆だ。敵意を向けられたし、苦手意識がまだ拭えない。あの眼鏡越しに放たれる、冷たく責めるような眼差しを思い出すと、それだけで落ち着かない気分になる。
魔法伯には、ベレルに意思があるのならこちらも応じる、と一度は言った。一人になると、別の考えがふとこみ上げてくるのだ。
――良いではないか。苦手なものは苦手なのだ。遠ざけてしまえばいい。
ゼーデン=タルコーザを前にした徒労感を覚えている。言葉を尽くすことが無意味に感じられる存在を、エルマは知っている。
もし、たとえ従兄弟が会って謝罪をしたいなどと言ってきても、真意である保証がどこにある? 最後にとびっきりの罵声を浴びせるために、父と弟に一時的に殊勝な態度を見せる――そんなことはしない人だ、とは、エルマには言えなかった。
もう既に、嫌な思いをさせられた相手だ。エルマが今からでも会いたくないと言えば、そこで話は終わり、これ以上の悪化は防ぐことができる。
ユーグリーク、祖母、伯父――エルマ=タルコーザと違って、エルフェミア=ファントマジットには守ってくれる人が大勢おり、守られる環境が揃っている。
持てる者が利用することは悪だろうか。忌避対象から目を背け、耳を塞いで何が悪い? それはごく自然なことではないか。
ぬいぐるみの無垢な視線が、じっとエルマに注がれていた。
そう感じるのは錯覚だ。詰め物を布で覆った作り物は、血の通った生き物ではない。
けれど、自分を見つめる意識を持つ感覚――それでエルマには充分だった。
(ベレルバーンさまは嫌な人で、苦手で、一生会わない。わたしがそう決めたなら、話はここでおしまい。でも……一生そうやって過ごすの? 少し冷たくされる度に、拒絶して逃げて、無視をして。そんなわたしが、ユーグリークさまの隣に立つ……?)
――あり得ない。
エルマの心は、そう答えた。
(わかり合えない人はいる。向かないことがある。少しできるようになったと思う度に、無知を、未熟さを痛感させられる。だけど……まだ、終わりじゃないわ。やりきっておしまい、なら、納得できる。立ち上がる気力がない程疲れてしまった時も、仕方ない。今はそのどちらでもない)
何故お前はここにいる? いるべきではない、ふさわしくない人間なのに。
最初にそう言われたときは、反論できなかった。エルマ自身まだそう思っている部分が強く、経験もなかった。
だが、エルマなりに精一杯、貴族として、大人の女性として、一人の人間として――ユーグリークの未来の妻になる身として、振る舞ってきた。理想に届かずとも、そこに至る道を求めて今日まで歩いてきたのだ。
「……今ならきっと、大丈夫。あの人に睨まれても、胸を張って立っていられるわ」
小さな手作りのフォルトラに向かって、エルマは微笑みかけ、そっと大事に抱きしめた。
平時とほとんど同じ時間――少しだけ早く、親子を乗せた馬車は帰ってきた。二人とも、見た目は特に変わりなさそうだ。前は魔法で攻撃されたり胸ぐらをつかまれた所を見たが、服の乱れなども見られない。どうであれ、ひとまず平和的な話し合いで終わったらしいと、エルマは少しほっとする。
「話してきたよ。……色々と」
伯父は目が合うと、静かにそう言った。それから少し、言葉を探すように目を揺らす。
「……君とも、会いたいそうだ」
エルマはすっと息を吸い、にっこり笑みを作って、用意していた答えを返した。
「はい。わたしもぜひ、お話しさせてください」
***
話し合いはカフェで行われることになった。
プライベートな空間より、ある程度人目がある場所の方が、万が一カッとなってしまった時も無体を働きにくいのだそうだ。
男達の話し合いは、先日済んでいる。今日はエルマとベレルの決着をつける日だ。
立ち会いについて、エルマは第三者を交えてではなく、二人同士で静かに語り合うことを希望した。ベレルの方も了承済みだ。結果、付き添いは隣の席で見張り、何かあればすぐ駆けつけることになっている。
落ち着いた照明と音楽の中で、エルマは年上の方の従兄弟と久しぶりに顔を合わせた。
ベレルバーン=ファントマジットは相も変わらず地味な色合いの男だったが、眼鏡の奥の目だけは鋭い。しかしそれも、以前より威圧感が減っているような気がした。全体的に、少し痩せたようにも見える。
「……お久しぶりです」
「ああ……そうだな」
どう声を掛けたものか迷ってから無難に挨拶をすれば、意外にも応じる声が返ってくる。
少し離れたテーブルをちらと一瞥すると、伯父とスファルがそれぞれ合図を送ってきた。
ベレルバーンに目を戻せば、彼はエルマを睨み付けてから――音もなく、頭を下げた。
「まずは、謝罪を。お前――あんたと、あんたの母親を泥棒呼ばわりしたのは、言い過ぎだった。それに、言ってはいけないことだった」
エルマは唖然とした。今日、もしかしたら最後まで聞くことはないかもしれないと覚悟もしていたのに、あまりにあっさりと頭を下げられている。気持ちが追いつかない、というのが率直な所だ。
(――深呼吸)
自分が息を止めていることに気がついたエルマは、こういう時――頭が真っ白になって動けなくなった時の、いつものおまじないを繰り返す。すると呼吸をするごとに血が巡り、思考も回るような感覚がした。落ち着いて、疑問に思うことを、確認したいことを整理する。
「それは、わたしの母のことを庶民だと思っていたけれど……実は貴族の血を引いていたから、思い直したということですか?」
エルマの母シルウィーナは、かつて魔法伯家のメイドとして働いていた。魔法伯子息――貴族のアーレスバーンとは、身分違いの恋であった。
しかし、シルウィーナはそもそも、男爵家タルコーザの出身だ。庶民だと思っていたが、実は貴族だったから問題ない――そういった理屈なのだろうか、とエルマは確認する。
「いや? 確かにあんたの母親は――シルウィーナは、元を辿れば貴族の出だったらしいな。だけど実家でも、使用人と変わらない暮らしをしていたそうじゃないか。……そうじゃないよ。そんなことじゃない」
一瞬、エルマはまた母のことを詰られるのかと身構えた。しかし、ベレルバーンは皮肉っぽい、あるいは疲れたような笑みを浮かべて首を振る。
「ボクはシルウィーナが、貴族の坊ちゃまという型に夢を見て誘惑したんだと思っていた。だけど違った。シルウィーナに夢中になったのは、アーレスバーンの方だ。彼女は分別を持って接し続け、いよいよ拒みきれないと悟ると、一線を越える前に屋敷を出た。……それでも諦めなかったアーレスバーンは、後を追った。馬鹿な人だよ……ボクには全く、理解できない」
母のことは、彼女のせいではなかったと納得した、という説明だ。
次の父に対する言葉の解釈に迷う。揶揄というより、諦念――それも違う気がする。
今までとは違うベレルバーンの面に触れている気がした。
口を開こうとして、乾いていることに気がついた。一口だけカップの茶を含んでから、エルマは従兄弟に問いかける。
「あなたは……わたしのお父さまが、嫌いですか?」
「ああ、嫌いだ。アーレスバーンが――菫色の目を継いでこなければ。この家は魔法伯の称号に縛られることもなかった」