10.十二時を告げる針
エルマはとぼとぼ家路についていた。
あの後、店員に尋ねてぎょっとした。
まさか支払いまでさっくりと済ませられていたとは。
自分のお茶代はこちらで持つつもりだったのに、お店に入った時点でおごる気満々だったということなのか。
(……頭が痛い)
抜けているのか抜け目ないのか、色んな意味でつかみどころのない男だ。
いや、こちらにはつかんでおくつもりはないのだが、あちらがグイグイ押しつけてくるわけで。
その最たる物が今、服の下で揺れ、小さく存在を自己主張している。
(指輪……戻ってきてしまった……)
一度目ならず二度目の落とし物(落とした本人自称)だ。もういっそ、こちらから返しに行ってしまおうか。
そこでエルマは気がついた。自分は現状、一切相手のことを知らないのだと。
名前すら聞いていないことを改めて思いだし、愕然とする。
自分は全然知らない人からラティーを貰って、指輪を落とされて、そしてまた今日中にラティーを……もらえるのかどうなのか。
(……頭と胃が痛い)
彼が何者なのか、全く心当たりがないわけではない。
言動や身なり、持ち物などの情報から、お城の関係者で、しかも相当偉い人なんだろうなあ、と推測はできる。
あの外見だし、“魔性”という呼び名もあったはず。人に聞いて回れば、たどり着くこと自体は可能――というか、容易ですらあると思う。
(でも、まず間違いなく門前払いされるわね)
そして追い返される途上で指輪を取り上げられたり、父や妹まで巻き込んだり、盗んだからと牢屋に連れて行かれたりしたら……。
下手なことをするよりは、このまま男がまたやってくるのを待つのが一番被害がない。ような、気はする。
(……頭と胃が痛くて目が回りそう)
彼は本気で、今日中にラティーを持ってくるつもりなのだろうか。
少なくともやる気は見せていた。
しかも実際、「また会おう」と言った翌日、エルマの背後に立っていた男だ。
そもそも懐からラティーを取り出せる時点でおかしいことを思い出すべきだった。
ああ、家に帰りたくない。
だが、いろいろな意味で帰らないわけにはいかない。
浮かない気持ちのままであろうと、足を動かしていればいずれは家にたどり着く。
案の定、エルマは手ぶらであることを散々責められた。
その上、いつ呼び鈴が鳴らされるか、それともいきなりまた背後に立っていたりするのか、などと男の来訪に気が気でない分、日頃よりもさらに失態続きだった。
物は落とすし、メニューは取り違えるし、挙げ句怒ったキャロリンの風でスパッと額が裂けても、頭からだらだら血を流したまま気がつかない。
が、珍しくこの大惨事が功を奏したらしかった。
あまりにも気もそぞろなエルマの様子に、さすがにやりすぎたと父ゼーデンが感じたようなのだ。
「おい、できそこない。お前は今日もろくな成果を出さなかったが、今朝のラティーだけは悪くなかった。そこで、晩飯ぐらいは許してやろうと思う」
「父さま、なんでよ! 姉さま、さっきからぜんぜんなっていないわ! いつもみたいに、鞭で気絶するまでひっぱたいてよ! ねえ!!」
「キャロ、お前の魔法でもう傷ができているだろう? 時に寛大な心を見せるのも、貴族社会で生きていくのには大切なことなんだよ」
爛々と目を血走らせていた妹は、父になだめられると、渋々引き下がっていく。
彼はキャロリンを溺愛しているが、それはペットの餌やり係のみ担当するようなものであり、面倒な部分は一切自分で見る気はない。
キャロリンも薄々、自分に従わない娘は父にとって価値がないことを察しているのだろうか。
わがまま放題に見えるが、父が本気でなだめると、常に大人しく従っている。
エルマが本当に壊れそうになると、その寸前で父はこうして「優しく」なる。
だからエルマは、酷使されつつもなんとか生き残ってこれた、とも言えよう。
無給でこきつかえる雑役女中が得がたいのか、一応はまだ家族と思ってくれている証拠なのか。
エルマにはわからない。考えることにもとっくの昔に疲れてしまった。
ただ、暴力が訪れなければほっと胸をなで下ろす。その繰り返しだ。
今日は寝支度関連の用事も、最低限度しか命じられない。
いつもなら父と妹が寝た後、エルマだけ床だの食器だのを磨けと言われるのだが、さっさと階段下に追い払われた。
しばし闇の中でぽつんと座り込んでいたエルマだが、屋敷が眠りに包まれた気配を感じ、そろそろと立ち上がる。
(……結局、誰も来なかった)
ラティーは届かず、指輪はまだ手元にある。
少し額が切れたが、手当はできたし、晩ご飯まで食べることができた。
引っ越してきてから一番平和な夜でもあった。
なのにこの、ぽっかり胸の中に穴が空いたような何かが足りない感じはなんだろう?
(何も起こらない。それが一番いいことのはずなのに……)
大きな音を立てないように注意しながら、玄関まで進んでいく。
柱時計がコチコチ時を刻んでいた。今日ネジを巻き直して、時間を合わせた古時計だ。
ゼーデンにもういいと追い払われた時はまだそう遅くない時間帯だったが、いつの間にかすっかり夜も更けて、十二時に針が近づいていく。
そっと扉を開けば、夜風が吹き込んで体が震えた。冷えた拍子につきりと額が痛み、布を当てた部分に手を添える。
見上げた空には今日も月が浮かんでいる。
長い一日が終わる。そしてきっと明日から、また忙しく、代わり映えのしない日々が戻ってくる。
(……これでよかったんだ、きっと。指輪は、今度詰め所に届けよう。今日もそうするべきだった。落ちていたので拾いましたと言って、それで……)
エルマはぎくりと体をこわばらせた。
コチコチ響く音と、風が草木を揺らす音。この真夜中に聞こえているのはそれだけのはずだ。
(――気のせいじゃない)
エルマの心はその場にとどまっていたいはずなのに、体が勝手に外に滑り出した。
よろめくように、音のする方に歩いていく。
まもなく、庭の草木を押し分けて、覆面姿の男が現れた。
「良かった。もう寝ているというか、そもそもここに誰かがいることが疑わしかったが――この時間まで待っていてくれたんだな。ほら、ぎりぎりだけどまだ日付は変わっていない。約束通りのラティーだ!」
彼はエルマに抱えていたかごを差し出し、覆いを取ってみせる。
はたしてそこには、みっちりたっぷり詰め込まれたかご一杯のラティーがあった。
エルマは呆然と受け取って、信じられない光景を見つめる。
十二時を告げる時計の音が、背後で鳴り響いた。