第四章『招かれざる訪問者』1
鐘の音の中、楓は女が幽かに息を呑む気配を感じ取る。
が、意識を礼に向けたまま、静かに息を吐ききり、背を伸ばして深い磬折 (*12)。
「よろしくお願いします」
と、面を上げた楓は精いっぱいの笑顔を作った、つもりだ。
彼女にはほほ笑みを自然な形に作る心得がなかった。
口の端が不自然に吊りあがっていないだろうか。
引きつってぎこちなさを与えていないだろうか。
そうした不安をぬぐえない彼女をよそに、
「ちょ、ちょっと部長! ひどいですよ! なんで南海さんのこと事前に教えておいてくれなかったんですかぁ! あたしが恥ずかしくなるじゃないですか!」
と、受付の娘が何かに弾かれたようにまくしたてる。
「南海さんの赴任は前もって教えていたはずですけどね。その上で吹子さんが勝手に恥ずかしくなるかどうか、そこは僕が責任を負う部分ではありませんよ」
「そうなんですけど、そうじゃないというか、……んー」
要領を得ない返事だ。
受付での対応を嘆いているのだろうか。
それについてならばお守りを『授与』ではなく『販売』と言った点を除いて、楓は気にしていない。少しばかり元気すぎるので気圧されはしたが、自分にはない生気があって好もしいとも感じている。
「お名前と葦原からお越しになるという以外はどんな方だとか全然知らなくって……」
「それは僕もほとんど同じですけれどね」
部長は鼈甲縁を持ちあげてから楓に向き直り、
「ごめんなさい。こちらの方が――」と受付の娘に水を向ける。
その言葉に押しだされるようにして娘が前へ出た。
「帝都支部所属の山吹吹子、初位の二年生ですっ! 六月十五日生まれの十八歳で身長四寸、体重は……秘密です! 趣味は散歩と読書とお菓子を食べること。それとレヴュウ観劇で、今ひいきにしているスタァは星咲銀河。好きな探偵は神ぐ――」
「ちょっと、ちょっと吹子さん」
上ずった調子でいつまでもつづけそうな山吹を部長が制止する。
「乙女らしく恥じらっていたと思えば、今度はそうべらべらと一気にまくしたてて、誰もそこまで聞いていませんよ」
「いやいや部長、あたしは事実乙女ですから」
「ならもう少し慎ましく自己紹介をしてください」
「あ! 部長、乙女は慎ましくっていうそれ、時代遅れの蔑視発言ですよ。いまどきの乙女は言うべきことはしっかり言うんですからね」
「僕にはいま言うべきでないことまで言っているように聞こえましたよ」
「むぅ、ああ言えばこう言うんですから」
「それは僕が言うべきことですよ」
二人の流暢なやり取りを前に、楓はなにも言いだせない。
彼女の常識においては、上司と部下のこんな応酬はありえないものだ。
いや、親子間でだってありえない。
それに受付専門だろうかと当たりをつけていた子がまさか同僚で、しかもこれからの生徒だという事実にも戸惑う。しかしよくよく料簡すれば山吹は同じ服装をしており、その可能性は十分にありえたわけで、雰囲気で判断した楓の早とちりといえる。
とはいえ支部長である銀嶺への態度を目にすると、やはり意外だとの感をいだいてしまう。
はきはきした言動と表情の山吹と、部長の柔らかな口調が飛び交うのを前に、楓は自分がこの場に馴染めるか不安になってくる。明るい賑やかな場は嫌いではないが、そこに混ざりたいかというと、それはまた別の問題。
自分が入れば元々の明るい雰囲気を損ねるのではないか。
これまでもそんな不安に苛まれてきた。そういうふうに考えるのは、彼女が自身の短所として把握している、内向きで陰鬱気味な性質のためである。
「――こんな調子の二人で細々とやっているけれど、どうかよろしくお願いします」
「お二人で、ですか?」
事前に耳にしていたにもかかわらず、問い返さずにいられなかった。
部長が首を縦にふる。
実際に当事者から聞いて、楓は改めてその異様さを考えた。
帝都はひとつの都市として大陸一の人口を誇っている。
そのような巨大都市に置かれた支部の配置数がたったの二人、しかもその内訳は事務方の部長と、初位――こういう指摘はひどく失礼だと楓は承知しているが、まだ研修も十分ではない新米――の山吹だという。楓がこれまで転任してきた中には少人数配置の支部もあったが、それらは管轄地域の人口数の少なさに基づくものであったし、それとて十数人規模が常であった。
そんな身の彼女からすれば、帝都支部はいくら一都市のみが所轄とはいえ、たった二人の配置で回せているのがにわかに信じがたい。
――山吹さんの教育の他に人員融通も兼ねて派遣されたのかしらん
神祇官や人事官はどのような判断に基づいて彼女を指名し、帝都支部へ向かわせたのか。
そういった事柄はいっさい開示されておらず、一介の下等官にすぎない楓は上層部の意をうかがい知る立場にない。
もっとも楓としては、どこであろうと遣わされた以上、その地で求められるお勤めを果たすことこそが自らに課せられた役目であり、我が身の使命であると得心している。
それは南海楓の、ひいては巫女の家系である南海家の女としての在り方といってよいものだ。
「いくら事前に聞いていたとはいえ、大帝都に二人だけというのは、ともすれば不安に感じてしまうのも無理はないと思います。本部からの通達では、どうせそのあたりの事情までは含めて説明していないでしょうし……」
〈巫機構〉の通称で呼ばれる〈全弌巫機構〉は和州全土に遍く存在する神社、祭祀、祭礼、霊地、伝承や土着信仰を管理する国際機構だ。その興りは祭政が一致していた王朝時代にまでさかのぼるが、現在では国家、特に政治とは距離を置いて活動している。しかし古い組織なのでなにかと現代にそぐわない弊風も残されており、過度な秘密主義や密室人事もこれにあたっていた。
「主に研修と教育を行い、その他は支部長の指示に従うようにと拝命いたしましたが、それ以上の詳しい説明は受けておりません」
「二人しか配置されていない事情についてはおいおい説明します。少なくとも配流の類ではありませんから、そこはおおいに安心してください」
「大帝都に島流しなんてされた日には戻りたくなくなっちゃいますね。この街では何をするにも事欠かないんですから」
「吹子さんの実地研修、帝都内に散らばる社の把握、管理、保全と……、やってもらうことは色々とありますが、さしあたって荷解きをすませてからにしましょうか」
部長が受付の奥の鞄を示す。ほんの二時間半ほど前に別れたばかりの荷物であるが、ここに来るまで何くれとあったのですでに懐かしい気がする。
「住む場所についてですが、こちらで当座の部屋は確保してあります。そこを拠点によい下宿先を探してもらってもいいですし、差し支えがないのであれば、そのまま落ち着いてもらう形でも構いません」
「部屋をとって頂いているんですか?」
楓が感嘆混じりに聞き返す。しばらくは適当な木賃宿にでも泊まりながら下宿屋を探す心構えをしていただけに、部長の配慮はありがたかった。
「といってもすぐ上の階ですから、こちらはなんの手間もかけていませんよ」
「上の部屋は日割りですか? 月極ですか?」
「建物ごと〈巫機構〉が借りきっていますから家賃はいりません。一部の光熱費はご負担をお願いしますが」
「あたしも週末以外はだいたいの家財を持ちこんで上に住んでるんですよ」
家賃を払わなくて済むのは大きい。職住一致というのも性にあっている。それならばこのまま住まわせてもらおうか。楓がそう思案している間にも話は進む。
「どうするかは実際に部屋を見てからがよいでしょう。さ、吹子さんは南海さんを案内してあげてください!」
「任されました! 改めてよろしくです先輩!」
「はぁ、あのぅ、先輩っていうのは、その、もしかして」
あっという間に二人の勢いに呑まれる楓だが、山吹の言葉が引っかかった。
当の本人は、「もしかしなくてもです!」と破顔する。
「ですが、私はたったいま着任したばかりです。先輩というのならば――」
「位階が四つも上なんですから、南海先輩は絶対に先輩です!」
基本的に位階は年齢も加味されて昇位していく。だから六位の楓は初位の自分からすれば先輩だ、という理屈らしい。そもそも巫女二年生の彼女からすれば、周りの大半は先輩にあたろう。ましてや山吹は部長と二人きりの帝都支部生え抜きだ。そんな彼女にとって楓は初めての巫女の先輩にあたっていた。
目を輝かせて元気に、「先輩!」と呼ぶ山吹の笑顔は屈託ない。それが楓にはなんともまばゆく、心に影を生じさせた。
その影は先と同じ、自分は彼女や帝都支部に馴染めるのだろうかという不安だ。
『自分から馴染む努力をしない人は誰にも馴染めない』という上の姉の言葉を思い起こし、楓は精一杯にほほ笑んでみせる。
が、はたしてうまく笑えているのか、苦虫を噛み潰したような顔になっていないか、やはり自身でも判別がつかなかった。少なくとも彼女自身には、自分のそれがうまく笑顔になっているという自信がない。
先輩と呼ばれた照れと自身の不安を弱々しい笑いでごまかしながら、楓は路地裏で遭遇した二つの出来事――路地裏で見た仮面の連中と、そのすぐ後の奇怪な蒸気の人形について――を報告すべきかどうかも迷っていた。
いますぐか、荷物をといてからか。
そもそもお勤めとは直に関係がないから報告をしなくてもよいのか。
赴任の移動中はお勤めに含まれるのか。
あれこれ考えているうちに、山吹が旅行鞄にさっと手を伸ばす。三貫ちょっとの鞄は山吹が想像していたよりもずっと重く、「よっ」と腰を入れて鞄を手にしてもなお、血色のよい腕がぷるぷると震えている。
「吹子さんはなにからなにまで軽いんだから気をつけてくださいよ」
すかさず突っこむ銀嶺部長に山吹がちょろっと舌を出す。
仮に楓が同じことを言われていたとしたら、もじもじと返答に窮するのが関の山であろう。上司に茶目っ気を出せるのは信頼あってのものだろう。それとも彼女が物怖じしなさすぎるのか。
「急がなくてもいいですからね。荷解きに人出が必要なら遠慮せず呼んでください。吹子さんは南海さんの荷解きがすんだら今日はそれで上がりです」
「お仕事でもそうじゃなくても南海先輩とならどこまでもお伴します!」
「それでしたら、荷解きは無給でつけておきましょうか」
含み笑いの部長に山吹はぎょっとして、
「不肖、山吹吹子は荷解きのお仕事に全霊を尽くします。ささ、こちらへどうぞ先輩!」
「ぇ、ぁ……うん。お願いします山吹さん」
――短くないであろうこの先、早く馴染んでいけるといいけれど
流されっぱなしかつ後ろ向き、巻き込まれやすい楓の懸念を弥増すかのように、玄関扉を激しく叩く音がした。
瞬時に身構えた楓、訝しげな目を向ける銀嶺、突然のことに誰何するのを忘れて呆ける山吹と三様の反応を示す。
「特高だ。こちらに南海楓という女がいるだろう」
磬折 (*12):本来は神拝作法で立礼のひとつ。ここで楓が行っている「深い磬折」の角度は約六〇度。我々の世界における神道のそれと同じものと考えてよい。